社会部カメラマン
スマホをスピーカーにして、呼び出し音に耳を傾ける。
サイドテーブルに置かれたリンゴをかじると、酸っぱい味がした。空気に触れた箇所が、しばらくして黄色く変色していく。
呼び出し音が切れて、数分後ふたたび鳴った。リンゴの変色した部分をかじる。受信ボタンを押す。
プツっという音が聞こえ、「もしもし」と、低く疑い深げな声が聞こえた。
「倉方玜介の妻ですが。お電話いただいて」
「あっ、あの、松山です。覚えてらっしゃいますか?」
「すみません、ご連絡が遅くなりました」
「お話したいことがあって、至急です。今、どちらに?」
声から必死さが伝わってくる。少しだけ迷った。
「イーストクラウドホテルにいます、大手町近くの」
「わかりました。すぐに向かいます。三十分ほど、ロビーで」と要件だけ言うと、返事をする間もなく電話が切れた。
数分後、化粧品がなくて素顔のまま部屋から出た。
これまでメイクなしに人と会う勇気などなかった。それがどれほど自分を縛った結果なのか。たとえ、素顔だとしても、他人は、それほど気にしないことを考えもしないで。
ロビーで暇をつぶし、十分くらい待っていると、黄褐色のよれよれのジャケットを着た男が入って来た。
無精髭の下の唇が半開きのその顔は、数年前に会ったときと変わらない。
松山友之だ。
彼はまっすぐにフロントに向かった。
「松山さん?」
背後から声をかけた。フロントマンと話していた彼は振り返り、眩しそうに眼鏡の奥の目を細めた。
「ああ、ああ、あの」
「倉方です」
「お久しぶりで。このたびは、あの、ご愁傷様で」と、聞き取れないほど小さな声でごにょごにょと呟いた。
ロビーのソファに案内してから「お話とは、なんでしょうか?」とたずねた。松山は落ち着きなくソファに座り、周囲を見渡してから、再び立ち上がった。
「どうも、きらびやかな場所は落ち着かない。外へ出られますか?」
「ええ……、でも、ちょっと」
「なにか不都合でも?」
「お待ちいただけますか。コートを取ってきます」
「わかりました」
部屋からコートを抱えて戻ると、松山が入り口近くで待っていた。
ベルボーイが
顔が強張るのを感じる。なぜ名前を知っているのだろうか。昨夜、会った覚えがない。
「ベルボーイにまで名前で呼ばれるなんて、このお高そうなホテルの常連ですか。すごいですね」という松山の声には、皮肉が混じっている。
陽菜子は肩をすくめ、無言で皇居に向かった。東雲のおかげだと説明をするのが面倒でやめた。
「公園のベンチに行きましょう」と、背後を神経質に振り返りながら彼が続けた。
「いやあ、それにしても大変なことになった。あなたは事態を分かってないだろうし」
「なにをですか?」
「今は黙って。後で話しますから」
馬場先門から橋を渡って皇居外苑まで来ると、彼は空いたベンチに腰を降ろした。
玜介といい記者には似たようなタイプが多い。少し自意識過剰で他人にぶっきらぼうだ。彼は陽菜子が腰を降ろすのを待ってから続けた。
「ここなら、誰かに盗み聞きされる心配がない」
「盗み聞きする人がいるのですか?」
「わかりませんが。ホテルで背広姿の男たちが、あなたを観察していました。僕と離れてエレベータに向かったときに、ひとりがなにげに後をつけて他のエレベータで追いかけた。気がつきましたか?」
「いいえ」
ため息をつくしかない。
「気のせいかもしれませんがね、しかし、あの、まあ、用心にこしたことはない」
葬儀場でも男達がいた。警察の人間がずっとマークしていたとしても不思議はないだろう。
「それで、なにかご存知なの?」
「逆に、あなたは何を知っていますか?」
「何も、この一週間、なにが起きたのか。夫が……」
刺殺されたという言葉を口にできなかった。
「相手を、つまり犯人を見ていません。警察で監視カメラを見ても誰も映っていないので……。わたしが犯人だと思われています」
「そうですか」
「そして、昨日、自宅が火事で焼けました」
彼は考え深げにポケットを探ると、小さな封筒をだして、陽菜子のコートのポケットに滑り込ませた。
「実は、まず、これをお渡ししたくて来たんです。あ、出さないでください。後で見ていただけますか。誰が見ているかわからない」
ポケットに手をいれて感触を探った。
「これは、なんですか?」
「あの、玜さんのデスクにありました。貸金庫のカードです。僕が持っていても役に立たないし、もしかしたら、奥さんのためになるかもしれないと」
玜さん……。
玜介は仕事仲間や男友達から、よくそう呼ばれていた。世捨て人のような無頼なところがある男だったが、学生時代から不思議と男にも女にも一目置かれた。異端児ではあったが、物知りで知的な魅力を感じさせたからだろうか。
彼は年を経るごとに、まるで時に反抗するように堕ちていった。
「ところで、犯人の心あたりはありますか?」
「全くないわ。松山さんは?」
「あると言えば、ありすぎるし、仕事上での話ですが。しかし、あのような犯行をする人間は思い当たらない……。先週、うちの記者とともに、警察に行きましてね。オフレコで聞いた話ですが、警察のニュアンスでは、あなたに疑いを持っているように感じましたな。逆に聞かれましたよ。ああ、失礼。奥さんについてですが……。犯人が、あなたでなければプロの仕事でしょうな。そんな手際の良い仕事をする人間となれば、限られてくるでしょう」
「プロ……」
松山は背中を丸めて下を向き、せかせかした様子で話した。
(つづく)
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