結婚



「ところで、話は変わりますが、玜さんの父親がどうして亡くなったかご存知ですか?」

「いえ、彼は、あまり家族のことは話さなかったのです。いつも避けていました。つき合いはじめの頃から、両親は亡くなったとしか知りません」

「実は、彼のオヤジは自殺していてね」

「えっ?」


 確か母親は小学生の頃に亡くなり、父親もその頃に他界したと聞いていた。

 大学は残った遺産を食い潰しながら卒業したと。陽菜子の母がその話を聞いて結婚に難色を示したものだ。


『俺と結婚するなんて、俺でさえも反対だ』


 ジョークに紛らせて、玜介は乾いた声で笑った。あの顔を思い出すと胸奥がぎゅっと縮む。


『人並みなことができない。なあ、やっぱやめとけよ。友人としちゃあ、忠告しといたぜ』

『あなたが結婚しようと言ったのに』

『ああ、そうだ。忘れてた』


 それから、空を眺め、唇をとじたまま左右の唇を引きあげ、悲しい笑顔をつくった。


『空が青いな。眩し過ぎてさ……、俺みたいのが生きてるのが間違ってんだってよ』


 酒に溺れると、同じような言葉を繰り返した。最後に必ず『俺が悪いんだよな』と言う。否定してもらいたいかのように。その否定を、別の誰かに言わせたいんだと、いつも感じた。


 父親が自殺した……。


「自殺の理由はわかりますか?」

「それが、理由はわからないのですが。遺書が残されていて、それによると妻の自殺に思い悩んだということです」

「お母様も自殺だったんですか?」

「そうです」

「なぜ一人息子を残して、そんなことを」

「わかりません。ただずっと父親は行方不明で、発見されたときは死後、数ヶ月たっていました。狭山の山中で道に迷った登山客によって発見されてね。腐乱した状態でした。遺書と遺留品で玜さんの父親と……、父親が教師だったことはご存知ですか?」

「いえ、本当になにも知らないのです」


 松山はふっと笑った。風が強く肌寒い日だが、彼は気にしてないようだ。枯葉がカサカサと音を立てて舞っている。


「奴らしいけど、けどね、あなたも大概たいがいですね。ああいう男と結婚できる女性って、どんな方かと思いましたよ」

「まぬけな女です」

「いいや、そういう意味じゃないです」と、彼は照れながら否定した。

「玜さんは魅力のある奴ですが。すみません、はっきり言って性格が壊れていた。そこが奴の魅力なのかもしれませんが。だから、お相手は人間ができてないとやっていけないと思いましたよ。無頼ぶらいを決めて、吐き捨てるように皮肉を言うところなんか、敵を作りやすかった」


 甘ったれだと思った。世の中を斜めに見る多くの人間がそうであるように。わがままで、甘ったれで、それなのに、残念なことに彼を憎めない。


「ところで、親父さんについてですが。新しい事実が出たと彼が話していたんです。姫野という女性をご存知ですか?」


 また、姫野だ。例の保険外交員の女性がライバルと思っていた女である。


「いいえ、面識はないのですが。でも、スナックに勤めている人で、夫と関係があったらしい」

「ご存知だった」

「少し前に知ったばかりです。ご存知なのでしょう? 彼はいろいろな女性との付き合いがあったようです」


 黒ぶち眼鏡の奥で松山の目が閉じて開いた。


「それを全部知っていて、許してらしたのですか?」

「許す? 人が人を許すことなどできるのでしょうか」

「哲学的な返答ですね。あるいは、諦めてるのかもしれないですが?」

「彼の妻ですから」


 松山は声に出して笑った。


「いい嫁をもらったな」


 実際のところ、玜介は責めて欲しかったんじゃないだろうか? 責めてくれるのを待っていた気がする。しかし、それほど親切な妻ではなかった。


「それで、その姫野という方は、どういう人でしょうか」

「まあ、有り体に言えば情報屋とも……。つまり僕らみたいな因果な商売では、その手の女性と親しいと思わぬ情報を得ることができるんですな。彼女は銀座のホステスでした。今は中堅クラブのやとわれマダムです」

「そう」


 どういう女性なのだろうか? 保険外交員は小太りで、およそ玜介の好みから遠い女性に思えた。


「まあ、一筋縄ではいかない女ではあるんですが。玜さんに心底惚れていましてね……。すみません。奥さんに言うようなことじゃないですが」

「かまいません」

「で、彼女から、ある議員の話を……。左翼系の組合から議員になった人間で、徳岡大蔵という男をご存知ですか?」

「ええ、まあ」


 徳岡大蔵は左翼系団体の影のおさであり、元々の支持母体は旧ソ連との関係が深いと噂で聞いた事がある。今では政治団体としての力は失いつつあるが。五十年以上むかしの、たぶん、玜介の父親が現役教師をしていた時代には、かなりの勢力を持っていた。


「東大で安田講堂の紛争があった。つまり全学連の時代です。徳岡はいわゆる全共闘側の人間で、その後は左翼系組合を利用して議員となり、まあ、僕から言わせれば変節して無所属で、今も大きな顔をしている」

「それが、彼と、どういう関係なのでしょうか」

「玜さんというより、彼の父親との関係です。彼の父もいわば全共闘というか。一九六八年頃ですかね。あの当時、ソビエト連邦は夢の国だと、まあ、マスコミもそんな風にあおっていた時代がありました。彼の父親は教師として生徒たちを、言葉は悪いですが共産主義的な闘争へと導いていたひとりでした」


 そういう時代だったと言えばいいのだろうか。日本が活力を持っていた時代でもある。


(つづく)

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