犯人
「当時、玜さんの父親、倉方玜一郎氏は過激な左翼系組織にいたんです。その活動は、標的にした学校に就職して、生徒を導くことと、学校運営に攻撃を仕掛けるというか……。まあ、過激な左翼運動を進めていたそうで」
「攻撃とは?」
「就職した学校で裁判沙汰を何度も起こすのです。差別発言をしたと学校を訴えたりしてね。当時は公害問題に注目が当てられた時代で、急激な日本の発展に伴う弊害が出ていた。そう、今の中国みたいに」
「それと自殺と関係があるのですか?」
「玜一郎氏が自殺したのは、一九九四年。玜さんが小学生の頃でした。もう世の中で革命なんてことは過去の話で、人びとは過去を忘れた」
「よく、お話が見えないのですが。それと徳岡議員との関係が、どうなっているのでしょう」
「そこで、例の姫野という女が出てくるんですが。玜さんはクラブに飲みにいく。といっても仕事ですよ」
松山は鼻をすすると、言い訳じみた声で「寒くないですか」と、ボソッと聞いた。気遣わしげな彼の視線が
皇居外苑は晴れているが、風が強い。
人影もなく、どこまでも平和だ。
数日前に、近くのオフィスビル街で不審な死を遂げた男がおり、それがたまたま夫であったことは現実味に欠けている。
泣き出したいのか、笑い出したいのか、自分の気持ちがわからない。
「情報を得るのが奴の一番の仕事ですからね。ま、姫野と話したときにね、彼女から徳岡議員と
「懇意って」
「まあ、ご想像の通りです。で、徳岡議員が俺は人を殺したことがあると寝物語で
「議員が殺人を?」
「まあ、女をモノにするための悪い冗談かもしれない。ある種の女性は悪に惹かれるものだから。だが、地位もあるいい歳の老人にしては、不用意な発言ではあります。そのことで、玜さんが奇妙なことを言っていました。誰かに話すことで
「では、徳岡議員が父親の自殺と関係していると思っていたの?」
「わからないです。……俺には」
「では、夫はなにかを知ったのでしょう」
松山は背中を伸ばすと、首を揉んだ。そして、小さな声で「おそらく」と呟いた。
「何をつかんだのか、それがわかりますか?」
「ここからは危険ゾーンなんです。しかし、あなたの立場を考えると、お話ししないわけにはいかないかな」
「教えて下さい」
「その前に確認したいことがあります。とても失礼なんですが……、あなたは玜さんを刺したのですか?」
「えっ?」
「あなたが犯人なのか、真実を知りたい。玜さんは、ああいう男で、妻の立場からすれば辛かったと思う。恨まれてもしかたがない。僕が女房でも刺していたかもしれない……」
こんなふうに疑いばかり持たれていると、自分が犯人ではないという強い確信が持てなくなる。
自分がしたことに対する不確かな記憶。確かに彼を殺したいと思ったことがある。深い深い心の闇の片隅で。
寂しいことかもしれない。
ひとりでいることに慣れ、孤独のなかで、昔から我慢を強いられた。普通の夫婦のような喧嘩もなく、いい争いをした覚えもない。
彼女は両手を閉じて、唇にもっていくと、ふうっと息を吹きかけた。まるで、母親が子どもの手を暖めるように、温もりを求めた。
「だめよ、危ないから」という声がする。
お堀近くを、幼い子どもが母親の手を振りきり走っていた。
ゆったりした時間を過ごしているのだろう。
陽菜子がけっして得ることのない。そんな輝かしい太陽の元で生きる幸せを、親子が実感することはないだろう。暗闇に生きる陽菜子の立場になったことはないのだから。
「誰もがわたしを犯人だと思っているようです」
「そうなのですか?」
「いいえ、でも」
「でも」
「なんだか、疲れました。それでもいいのかもしれない」
松山は陽菜子の顔を真正面からみると、痛ましそうな表情をした。
「玜さんと……、同じ眼をしているね」
「そうですか?」
「どうか質問をはぐらかさないで下さい。あなたが犯人なのですか?」
愚かな質問だ。犯人なら否定するだろう、そして、無実でも否定する。
それでも彼は陽菜子から確証を、単なる言葉でしかない確証を得て安心したいのだ。きっと、彼は味方になりたいと考えているのだから。
「いいえ、わたしは殺してはいません。この返事をお聞きになりたかったの?」
彼は明らかにほっとしたようだった。
「そして、犯人も見ていない」
「ええ、残念なことに。あの時のあの瞬間に戻れたら、絶対に見逃さないのにと、馬鹿な後悔をするときもありますけれど」
「しかし、その方が、もしかしたら良かったのかもしれない。もし、あなたが犯人を見ていたら、相手はプロだと考えると、無事であったかどうか」
そうは考えていなかったので、言葉の意味を理解することに時間を要した。
「では、続きをお話しします」
(つづく)
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