闇に隠れる



「わたしが危険なんです、か?」

「大変、危険な立場だと、思っているんですが。自覚、あります?」

「ええ。つまり、もしかすると無実の罪で刑務所に入るかもしれない。そういう意味ですけれど」


 彼は玜介に似たボサボサの頭をかき、困惑した表情を浮かべた。


「そういう意味ですけどって、他人事のようですが、そういう意味ではない。誰かはわかりませんが。しかし、玜さんが調査していた内容が、今回のことと関わりがあるとすれば、過去の亡霊に足を突っ込んじまったかもしれない。深い闇をつついたかもしれないのです」

「深い闇……?」

「そうです。深い闇です。玜介の父親ですが、ロシアがソビエト連邦だった時代に、工作員だったという噂もあるのです。玜さんは、その事実をつかんだと言っていました。最近のことですが」


 普段なら退屈する話。金融関係の仕事は超多忙で、時間に追われていると、スパイとか、事件とか、小説のような物語に興味をもつ暇がない。


 仕事から離れることによって、苦笑するしかないが、世界は金融取引きだけでないと気づく。


 タバコを吸いたいと思った。吸ったこともないのに、なぜ、そんなことを急に思いついたんだろう。


「そんな、スパイ映画のようなことが」

「そんなスパイ映画のようなことが、東大紛争の時代にあったのです。共産主義的なプロパガンダで人びとを洗脳するため、彼らは多額の金をばらまいた。巧みに、つまり本人さえも気付かない間にスパイになった人もいます。当時の特殊事情もあったんでしょう。左翼的なマインドを持つ人間も多かったですしね。マルクス主義に理想を求めたのです」

「そういう時代? 本の知識ですけど……」

「そうですな。時に、極端なプロパガンダは、きわめて惨めな生活でさえも、天国だと信じさせることができる。これ、ヒトラーの言葉でしたっけ」


 午後になり、丸の内で働く人びとが、昼食に外苑まで出て来た。

 風は強いが太陽の光が射している。もし事件に巻き込まれなければ、同じようにオフィスの外にでて、弁当を買っていたかもしれない。


「では、自宅の火事をどう思いますか」

「詳しいことを教えてください」

「昨日なのです。自宅マンションの部屋から火が出て、室内は真っ黒。泣きたくなる状況です」

「放火? ちがうのですか?」

「わかりません。夫を荼毘だびに伏して、それから昼過ぎに帰ったら、燃えていて。原因は、まだわかりません。ただ、彼の仕事部屋が全焼していました。火元はそこだそうです」

「そうですか」


 松山は何も言わなかった。眉間にシワを寄せ、それから、両手を膝にあててから立ち上がった。


「ともかく、あなたに封筒は渡しました。僕の知り得たことは、それほど多くはありません。そろそろ仕事に戻る時間で、すみません。なにかあれば、また連絡してください」


 その言葉は社交辞令だと感じた。松山は玜介への義理から封筒を渡しにきたが、これ以上、事件に足を踏み入れるのは危険だと感じているだろう。


「ありがとうございます」


 彼は軽く唇を曲げて、周囲を見渡してから「良い天気だ」と呟いた。そして、「どうぞ、くれぐれも気をつけて」と、言い残して去った。


 彼が去ったあとも、寒いなかベンチに腰をおろしていた。なにかを待っているわけではないが、立ち上がれない。


 これからどうするのか、どうしたら良いのか。指先に触れる封筒をもて遊ぶが、開けたくなかった。


 午後になり、風も穏やかになって過ごしやすい。色づいた紅葉が美しい平日で、殺人事件とか火事とか、そうした非日常的な出来事は、すべて夢のように思える。


「考え事ですか」と、頭上から声がした。


 振り向くと、東雲が立っていた。彼の気配を感じなかったので、ふいをつかれ返事につまった。


 東雲は人差し指で鼻を軽く叩く。口角が左右にくっとあがり、かすかに笑ったように見える。

 その無意識な仕草は、どんな女でも拒否できないほどセクシーだった。美しい男だ。だからか、自分を恥ずかしく感じた。それほど彼は秋の陽だまりのなかで若々しく、美しく、清潔だった。


 陽菜子は頑固にうつむいたまま、ただ彼が去ってくれるのを待った。


「あの」と、珍しく彼がとまどった声をだした。

「どうかしたのですか?」


(つづく)

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