美しい男



 東雲はベンチをぐるりとまわり、隣に腰をおろした。いつもの貴公子のような洗練された態度ではなく、粗野な態度だったので驚いた。


 彼は、ふううっと長いため息をつくと、空を見上げて目を閉じた。


「なぜ、ここに?」


 若く美しい横顔を見せたまま何も答えない。こういうときの彼は近寄りがたい。年下であっても、犯しがたい威厳がある。幼いころから帝王学を学んできた者がもつ独特の雰囲気なのだろうか。


「ホテルのスタッフが、こちらにチーフが歩いていくのを見ていたので」と、彼が呟いたのは、数分すぎてからだ。

「仕事は?」

「いつものように片付けています」


 彼は雑に言うとベンチの背に両手を伸ばしドンっとおいた。背中に振動が伝わってくる。やはり珍しい態度だ。日頃は、鍛え抜かれたダンサーのように優雅な所作だったから。


「今日は、仕事が大変でしたね。テキパキと片付けてくれる人が休んでいるので」

「わたしのことかしら?」

「他に誰がいますか」

「部長は?」

「部長は、物事を更に複雑化する方に貢献する能しかないようだ」


 部長は焦げつくと壁にボールを当てるのが癖だ。その回数が増えるとストレスが大きいとわかる。壁当てボールを机の上に三種類ほど置いてあり、規則的な音が聞こえると彼がボールを壁に当てていた。


「ボールを壁に当てているのね」

「それこそ、ヤケのようにね。だからと言って、文句があるわけじゃないんだ。僕としては、だからどうだって気分でね」

「荒れているわね」

「逆じゃないかな。僕よりも、あなたが荒れても驚かない」


 と、いきなり彼は肩をすくめ、「よく似合っていますね」と、コートの先を指でなでた。


 つかみどころのない男だ。しかし、今は彼の意図を考えるよりも、ポケットに入れた封筒が気になった。指でもてあそんでいたが、そのうちに我慢できなくなり、取り出して封を裂いた。


 東雲は興味なさそうに、外苑を眺めている。おそらく、彼のことだ。立ち入らないようにしているのだろう。そうした育ちの良さがある。


 封筒内には、カードが一枚入っていた。貸金庫用のカードとすぐわかる。自宅で見つけた鍵は、もしかすると貸金庫の鍵かもしれない。


 ポケットにカードを突っ込んで立ち上がった。


「それで」と彼が言った。「これからどうしますか」

「順番に片付けるべきことを、片付けていくわ。まずは会社のこと、生活のこと、それから事件のことを」

「それは、順番が違うな。まず、事件でしょう。そのことでは僕をあてにしてください。チーフには、今、味方が必要でしょうから」


 ふっと笑った。


「そう言えば、なにか対案があるって」

「ええ、まあ。つまり、僕にはいろいろとコネクションがあって」


 東雲グループ総帥の直系には、一般人よりも多くのことが可能なのだろう。しかし、時々、彼はそれに退屈しているように見える。たとえば、恐ろしく仕事が立て込み、時間的な余裕がなく、あらゆる人びとがカリカリしている状態のときでも、彼の周囲だけは空気が違っていることが多い。


 仕事をしないという意味ではない。その意味では誰もが有能だと認めている。

 ただ感情が薄いように思えるのだ。


 人びとが忙しさに取り込まれ、疲れ、イライラしはじめても、彼は淡々としていた。仕事が遅れようが関係ないとでもいうように。あるいは退屈したとでもいうように。


 陽菜子ははじめて見るように彼の横顔を観察した。少しだけ高過ぎる鼻が、端正な顔を平板な印象から崩している。もし、この鼻が二ミリ低ければ完璧な容貌だろうが、それ故に中性的な印象を消して魅力的だった。


「何を考えているんですか」

「だから、その対案について」


 彼も立ち上がった。


「歩きながら話しますか……」

「ええ」

「僕には警察関係のコネがあります。それでチーフの事件について報道されたもの、といっても大してされていませんが。マスコミは興味を持ってないのか、あるいは、ご主人が報道関係者なので押さえているのか、それはわかりませんが」

「よかったわ。騒がれたり目立ったりするのは鬱陶うっとうしいですもの」

「学生時代の友人が警察官僚キャリア組で、守秘義務とかで、それほど詳しい話はしてくれませんでしたが、逆にチーフのことを聞かれました」

「そう」

「有能で、美人で、人望もある女性だと、それから、もし殺人を犯していたら、もっと魅力的だとも言っておきました」

「あのね」

「実際のところ、チーフについて彼が話してくれたのは、警察内部でも七・三という評価です」

「つまり七割は犯人ではないと」

「楽観的ですね。違います、七割は殺人犯です。このままでは百パーセント、容疑者として逮捕されますね。まだ、されてないのが不思議なくらいだが、実際は泳がされているようです。ホテルにいた得体の知れない男達をスタッフに調べさせましたが、警察の人間でした」

「そう……。それで対案とは」

「その前に分析です」


 芝生の上に今朝方の風で落ちた枯れ葉をひろうと、彼は横に二枚、縦に二枚並べた。


「これが、あの時のビルの位置です。チーフは、この場所で立ち止まって、振り返って走った」

「どうして知っているの?」

「まあ、だからコネです。ビデオを全部検証しました、僕なりにですが」


 驚いて彼を見た。いくらコネがあっても警察が押収したビデオを合法的に入手できるとは思えない。


「どうやったの?」

「MENSAの知りあいがいて、オックスフォード大学にいたときに知り合ったのですが、かなり特殊な能力をもつ人間で、MENSAって知っていますか?」

「少しは」


 MENSAとは世界人口の二パーセントの知能指数を持つ人びとの集まりだ。イギリスのオックスフォードで設立された非営利団体で、IQ百五十以上という条件だけが会員になる資格という。


「ともかく、その知りあいがハッキングしてくれました」

「あなたも逮捕されるわよ」

「それも面白そうだ。ところで主題から話が逸れていますよ。この監視カメラの死角でご主人は刺された」


 彼は枯葉を示した。


「そういうことね」

「監視カメラでは誰も他に写っていない。チーフしかいないとなれば、刺しに行ったようにも見える。実際は?」

「わたしが振り返ったとき、夫は妙な顔をしていて、それからひざまずいた。まるで心臓発作でも起こしたみたいだったわ」

「時間にして、どのくらい。つまり、チーフがご主人から離れてからということですが」

「記憶というのは不確かね。考え事をしていたから、短く思えたけれど」

「わかりました。行きましょう」

「どこへ?」

「現場ですよ。ここから遠いわけではない。現場百回というじゃないですか」

「変な刑事ドラマを見過ぎてない?」


 今日はじめて、彼はいつもの屈託のない笑顔を見せた。


(つづく)

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