現場検証
彼は口もとを真一文字に引きしめ、歯をみせずにニッと笑った。
──仕事は?
そう聞こうとしたが言葉にしなかった。いずれにしろ、会社もお客様社員である彼に文句を言わない。実際のところは、東雲に仕事をまかすつもりもない。
『将来、彼は東雲グループを背負って立つ人間だということを覚えておいて欲しい。まあ、仕事の方は適当に与えてくれればいいから、勉強させてやってくれ。よろしくね』と、彼の配属が決まったとき、部長から指示された内容だった。
適当で良いというのは、かえって難しい。責任ある仕事を任せるわけにはいかないが、相手にそれを悟らせる訳にもいかない。その状況を東雲自身は感づいているのか。彼は、ただ淡々と指示された仕事を優雅にこなしていた。
昼休みが終わり、会社勤めの人びとが、それぞれのオフィスに吸い込まれていくなか、事件現場へと歩いた。
丸の内のビル街、広めの整備された舗道を歩く人は少ない。みな、ビルのなかにいる。
「少し前には、ここに黄色い規制線が張ってありました」と、会社の裏口に来ると東雲が言った。
「そう」
「じゃあ、はじめましょうか。僕がご主人の役をします」
裏口のドアに立つと彼が言った。胸に痛みが走る。玜介は、ほんの十日ほど前には、まだ生きていて、そして、ここに立ってタバコを吸っていた。
「大丈夫ですか?」
「ええ。やりましょう」
「それで」と、言いながら彼は時計を合わせた。「この場を離れたのはビデオの時間では午後十一時二十分三秒、さあ。歩きましょう。あの時と同じ歩調で」
陽菜子はゆっくりと歩いた。そして、角に来ると「ここに彼は止まっていたのよ」と告げた。ここから彼が隣を歩いていなかったのを、全く覚えてない。それが今でも悔やまれる。
東雲は立ち止まった。
そのまま、あの時を思い出しながら歩いた。
本当になにも聞こえず、なにも見なかったのだろうか。玜介に怒りを感じ、一方、なぜか、彼に操られている快感にも酔っていた。言葉にあらわせずに押し込めた思いは、ふたりの間で
どこまで歩いたのだろうか。ゆっくりした歩調で、そう、たしか、ビルの窓を三つくらいのところまで、途中、玜介が横にいないわと思ったが、それでも頑固に歩き続けた。
あの時、自分がなにを考えていたのか、怒りを押し込めたために
このあたりだ。街灯を通り越してから、振り返った。
玜介……。
しかし、そこには東雲が立っていた。玜介とはちがい、無表情で、そこにただ、立っている。あの時と同じように走った。
「十一時二十三分二十秒」と、彼が告げた。
「つまり、ご主人と離れて、三十五秒間、彼はひとりだったことになる。やはり監視カメラで計算した時間とほぼ変らない。この場に立ってください」
東雲は陽菜子を立たせると、時計を見てから考え深げに。それから裏口に潜んで、飛び出し彼女の胸の近くに腕を伸ばした。それはおそらく玜介を刺すための時間だろう。
「なるほど。五秒で……。犯人は相当慣れているとしか思えないな、しかも殺人に
「なにか分かったの?」
「まだ何も。警察も捜査に難航しているのだから、素人が簡単に推理できる訳にはいきません。こういう時は視点を変えたほうがいいのかもしれない」
「そう」
「ご主人を恨んでいた方はわかりますか」
先ほど聞いたばかりの松山の話をした。
「教師と裁判ですか? 五里霧中ってところですね」
「ビデオから、何か分かったことはあるの?」
「今、その手の専門家に送っています。そのうちに結果を知らせてくれるでしょう。針の穴のような微細な事実でも導きだす、その手のオタクです」
「あなたは、まあ、おどかされる人ね」
「少しは見直しましたか」
「でも、なぜ、こんなことに首を突っ込むの?」
「なぜ……って。やはり可愛くない人ですね」
東雲はふんと上を向くと、鼻の先を人差し指で、軽く叩いた。
「まあ、暇つぶしと思ってください。僕の人生は、これで、なかなか大変なんです」
「暇つぶしができるくらいにね」
「そうでしか生きる方法がない人生というのを、誰も理解できないでしょうね」と、彼は謎かけのような言葉を使った。
「お金持ちも大変だと言いたいの?」
「そんな
「貸金庫のカードよ」
「どの銀行かわかりますか?」
「ホールディング銀行のものでしょうね。支店名はわからないけれど」
「貸金庫を持つのは本店か、支店でも大きいところです。見つけるのはそれほど難しくはない。ホテルに戻りましょう。これはチーフにしか開けられないですしね」
「どうして?」
「銀行の守秘義務です。暗唱番号をご存知ですか? その貸金庫の」
「いいえ」
「やはり遺産相続人であるチーフしか銀行での手続きができないな。松山という人と、どういう関係かわかりませんが、彼には開けられない」
「まさか、松山さんまで疑っているの?」
「周囲の人間全部を疑ったほうがいいと思います。ご主人の周囲の人間ということですが。そして、あなたに罪をきせたい人間も含めてね。その上で、殺人を犯すことに躊躇しない人間。あるいはそういう人間を雇えることのできる人物です」
「想像もつかないわ」
その時にスマホベルが鳴った。一ノ瀬警部から預かったスマホである。
「もしもし」
「今、お話できますか?」と、彼が言った。
「ええ」
「火事の原因がわかったので、一応ご連絡をと思いまして」
返事をせずに黙っていると、一ノ瀬が続けた。
「火元は仕事部屋のコンセントで、直接的には漏電が原因だそうです。ほこりがコンセントに溜まって、こうした事故がおきる場合があるそうですが。お部屋は吸排気の24時間換気システムがあったので、酸素が常に流入していました。火が燃え広がる状態です」
「事故? そんなことが、あの時に偶然に?」
「そうです、ちょっと偶然が重なり過ぎますね。ともかく、お知らせまでですが」
「ありがとうございます。ところで、自宅へ帰ることはできますか」
「どうぞ、ただ、現場ですので、まだ規制テープが張ってはり、所轄の者が張っていますがね」
スマホを切ってから、東雲に「警察だったわ」と言った。
「そのスマホは?」
「一ノ瀬警部にお会いになったでしょう。彼から借りたものです。わたしがスマホを切っているので、連絡用にと」
彼は眉を
「自宅の火事の原因がわかって、漏電だったらしいわ」
「漏電か。火事の時間に、警察は自宅を監視してなかったのでしょうか」
「さあ。わかりません。ただ、葬儀場にふたりの背広姿の男達がいて、たぶん彼等は警察の人間だったのでしょう」
「そうですか」
ホテルに戻るとホールディング銀行に電話して貸金庫について調べた。玜介が貸金庫を借りていたのは、自宅近くの支店だった。
「貸金庫に行ってくるわ」
「このホテルに帰ってきてください。ここは僕のフィールドです。安全をお守りできます。それから警察からもらったスマホですが、銀行の近くで電源を切っておきませんか」
「なぜ?」
「あなたの居場所を教えなくてもいいかもしれない。その貸金庫の物が何かわかってから、警察に話しても困らないでしょう」
「スマホを追跡していると」
「間違いなく」
その言葉にぞっとしたが、表情にはあらわさなかった。何を、誰を信じていいのか、それがわからなかった。
ひどい頭痛がする。
──おまえは愚かなの?
(第3章につづく)
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