第3章

秋の薄暗い日



 銀杏並木の歩道を区役所へと急ぐ。

 昨夜のうちに降った雨で落ち葉が濡れ、薄汚く変色した葉が、不思議なことにガサゴソと足もとで、それでも音を立てた。


 通りすがりの人から、顔をそらして区役所のドアをくぐる。


 届出のカウンターを見て住民票などのコーナーに向かった。並んでいる人はいなかった。


「届出をお願いしたいのですが」

「申請書をお書きください。どのようなお届けですか?」

「遺産相続人がひとりである証明を取りに来たのですが」


 にこやかに対応した事務の子は、はっとした表情を浮かべた。


「本籍はこちらですか」

「そうです」

「では、戸籍謄本で確認できると思います」


 ……。

 

 区役所の手続きを終え銀行に向かった。

 貸金庫の暗証番号を知らなかったが、所定の手続きを経ると銀行員が開けてくれる。


 彼の秘密を知ることに抵抗があった。


『俺のことを知っても、意味ないぜ』と、玜介はよく言ったものだ。

『わたしに意味があるかどうか、あなたが決めること?』

『どうせ、言いたくないことは言わない。気休めの嘘に興味があるのか?』


 あるわという言葉をのみ込む。


『無意味なんだよ。生きてることさえムダなんだから。俺のことなんて、さらにムダさ』

『それじゃあ、夢とか希望とかってなに』


 彼は楽しそうに、クッと笑った。


『じゃあ、おまえは信じているのか。夢とか希望とか、そんなもんをさ』

『たぶん』

『あはは……。ムダ、ムダ、ムダ』と、彼はリズムをつけて頭をふった。


 そして、そのままのリズムで身体を揺らし、タバコに火をつけベランダへ向かった。嫌がらせのように愛されることを拒み、さらに悪いことに、愛されたいと望んでいる。


 ふたりは負け方も勝ち方も知らなかったのだ。き出しの喧嘩をずっと避け、お互いに愛を語り、憎しみを語ることを避けた。傷つけたくなくて、傷つけあった。


 その結果が、今の状態。


 不幸だと思うとき、人によっては宿命とか運命とか、あるいは神罰とか、大仰な名前を付けるかもしれない。だが、それは馬鹿げていると思う。


 大抵は人としての在り方が、その結果としてあるだけだ。


 何か大切なことを避けた結果が、今に違いない。それでも、なお自分が何をしたのだという被害者意識は止められなかった。まるで不平ばかり言っている母のようだ。


 ただ、今は、すべきことをするだけだ。


 貸金庫のプライベートスペースで、預けられた長方形のボックスを開く。


 そこにはA4封筒が二通はいっていた。一つの封筒にはさまざまな新聞記事や取材メモ。もう一通にはパソコンの記憶メディアが入っている。


 中身をすべてトートバッグに入れると、銀行を後にした。


 ホテルの部屋に戻り、定期的に連絡を入れると約束した父に電話した。


「こちらにも、警察の人間が来た」と、父は感情を交えない声で言った。

「そう」

「大丈夫なのか」

「ええ、心配はいらないわ」

「そうか……。身体に気をつけてな」


 返す言葉がなく、「大丈夫、心配ないわ」と、明るい声で切った。


 それからパソコンを立ち上げ、銀行から持ってきたメディアを入れた。インストールしようとすると、画面にパスワード用の白い窓が開く。ため息をついて、パソコンの電源を落とすと、もう一つの封筒から資料を取り出した。


 原稿用と記したノートには、玜介の小さくて几帳面な字が並んでいる。著作でも出版するつもりだったのだろうか。

 ぱらぱらと斜め読みでめくった内容は、ほとんどが父親の資料だった。



『一九六九年四月  東小学校赴任 同年十一月退職

 一九六九年十二月 聖テレーズ初等部赴任 翌年八月退職

 一九七○年二月〜一九七○年九月 ●●地方裁判所原告』



 一九六九年、父親は赴任した横浜の公立学校を半年で退職しており、次のキリスト教系の聖テレーズ初等部は七ヶ月で退職、その後、裁判沙汰を起こしている。


 裁判の被告は聖テレーズ初等部であり、原告が倉方玜一郎であった。

 一九七○年頃といえば、玜介が生まれる十年以上も前である。


 陽菜子が聞いた彼の生い立ちで、印象的に覚えているのは、彼の誕生後に父母の婚姻届けがなされたことだ。


 その事実を、彼は深い傷のように話した。

 陽菜子は彼を慰めた。

 慰めの言葉が強すぎれば傷つくだろうし、弱ければ気持ちが通じない。ちょうど適当な強さで、それが玜介には必要だった。陽菜子は常に薄氷を踏むように彼と接した。常に不安を感じていた。


 ──ムダ、ムダ、ムダ。


 彼の声が耳に響く。



(つづく)

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