闇のなか


 

 封筒に入っていた新聞の天枠には、『聖テレーズ初等部:新聞』とあった。


 おそらく学校新聞だろう。ただ、一般紙のような体裁で小学生向けではない。

 玜介がペンで印をつけた記事は『校長様を支援する会だより』というタイトルであった。


『一人の教師により始まった不運な裁判を、保護者の皆さまに正確に伝えるべく、編集者の元に集まった有志の会がマザー天神ノ宮あまがみのみや校長様支援会である。


 いわゆる倉方問題は、一教師が不適切な問題を学校に持ち込み、子供たちに、己の主義主張を植え付けるべきのみに教壇に立った。その姿に多くの父母が危惧を覚えたことが端緒である。


 マザー天神ノ宮校長様は、この問題から彼を不適切として解雇するに至ったのだが、その結果、これを労働問題にすりかえた倉方玜一郎元教師は彼の所属する団体とともにビラ配りをはじめ、誤った世論を形成している。


 裁判所では、倉方玜一郎元教師の所属する団体から、多勢の運動員が押し掛け、悪意ある雑言を浴びせかけ、その中で校長様はひとり被告席で、いつもの穏やかではあるが決意を持った強固な態度で戦っておられる。


 傍聴した者はわかるが、この状況は裁判官が「私語や罵声を慎むように」と再三注意しても止む事はなく、校長様のお姿に我々としても義憤ぎふんを感じずにはいられない。


 保護者の皆さまの賛同を期待するとともに、支援会に参加していただけることお願いする所存である』


 この時代に多くあった言わば東大紛争の、もっと言えばベトナム戦争に始まった米国の反体制運動、いわゆるフラワーチルドレンの日本版といった運動であろうか。


 倉方玜一郎が学校を標的にした事件。記事やノートを読む限り過去の事件として終わっている。


 一九九四年九月十四日付け朝日新聞の切り抜き記事が入っていた。数学教師、山中で発見という見出しとともに、仕事に悩み自殺と書かれていた。


 一九九四年と言えば玜介が小学生の頃である。


 おそらく生々しく彼の記憶に残っていたはずだ。母親は他界しており、彼がすべての後始末をしただろう。ひとりで何もかも手はずして、その後、一人で生きた。親類間で相続にもめたのも、この時期のはずだ。


 彼は相続した蓄えで大学に入学した。入学直後に病のため一年間休学した。後にそれは原因不明のリンパ腫による高熱だったと聞いた。


『気のせいで病気になった』と、彼が言った。

『気のせい? それで入院なんて』

『俺は……、生まれるべきじゃなかった。なんてな、中二病のようなバカなことを考えていたら、気のせいで病気になっちまった』

『生まれるべきじゃない人なんて、いないと思う』

『そんな、上っ面の言葉を信じているのか』

『そうよ、わたしは上っ面だけの人間だもの』


 玜介ははにかんだように歯をみせずに笑った。


『お前の、そういうところが、あのな。好きなんだ』


 初対面の頃、彼は繊細で神経質で、ある意味弱々しい優しさがあり皮肉屋だった。


 結婚後、徐々に他人を見下すような冷たい男に変わった。ふたりに子どもが出来ないことが、きっかけだが、しかし、それはきっかけに過ぎない。爆発寸前まで何かが張りつめていた所に、無精子症がいい具合に彼の中で説明理由として存在したに過ぎない。


『生物として残っていいという神のお墨付きまで失った』と、彼はジョークに変えて苦笑いを浮かべた。


 玜介……。


 なぐさめるべき言葉を失った。





 夢中で書類を見ていたので、ドアがノックされたのに気づかなかった。勝手にドアが開いた。視線を上げると、紺色のブレザーを来たスタッフが申し訳なさそうな顔で頭を下げている。


「倉方さま、その警察の方がいらしております」


 スタッフの後に一ノ瀬と別の警官が控えている。スタッフが恐縮した営業用の顔をうかべて、ドアの向こう側に消えた。


「すみませんが、お話を伺えませんか」

「なんでしょうか?」


 一ノ瀬は陽菜子の背後に視線を走らせた。


「そちらにあるのは?」と、デスクに広がる書類を見た。


 彼は値踏みするような、あるいは言葉を選んでいるような表情で、それから沈黙した。おそらく全てを知って来ているのだろう。


「夫が持っていた書類です」

「そうですか」

「貸金庫にありましたので、何かと思って持ってきました」

「申し訳ありませんが、捜査にご協力頂きたいのですが」

「ご覧になりたいのですね……。どうぞ、お入りください」


 一ノ瀬ともう一人が入ってくると、彼は加藤ですと自己紹介した。彼らは原稿ノートや新聞の切り抜きをぱらぱらと捲った。


「これらは銀行の貸金庫にあったのですね。前からご存知だったのですか?」

「いいえ」と、答えてから松山について迷った。

「主人が亡くなってから、自宅で貸金庫の鍵を見つけて調べたのです」

「そうですか。貸金庫については、ご存知だったのでしょうか」

「いいえ、知りませんでした」

「今回の事件と関わりがあると思って?」

「それも、わかりません。なぜ、あの時、あの場所で、主人が刺されたのか? そのことが知りたいのです。わたしには理由がわからないのです、どんなに考えても。仕事関連のことなのか? 誰かに恨まれていたのか? でも、金銭関係ではないと思っています」

「なぜでしょう」

「誰かにお金を貸したことも、借りたこともない人でしたから。金銭については、とても潔白でした」


 一ノ瀬はノートを流し読みしていた。とても気楽な様子で。もしそれが演技だとしたら、プロの俳優と言ってもいいだろう。


「主に、お父様のことについて調べてらしたようですね。さてと……、ところで、ご自宅の火事のことですが」


 黙って次の言葉を待った。



(つづく)

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