解雇
一ノ瀬は
「火事の原因はトラッキングであろうと、化学班からの回答です。コンセントに埃がたまり、それによって発火することを『トラッキング』と言いますが、ある事ではあります。あの日は嵐で湿気もありましたしね。条件は揃っていました」
「主人の仕事部屋です。夫は、わたしが部屋に入ることを極端に嫌っておりましたので、入ったことがなくて。先日、火事の少し前ですが、部屋に入りました」
「マンションの3LDKで、入らない部屋があったのですか?」
「ええ」
「まったく?」
一ノ瀬は頭をかき、困ったような表情を浮かべた。
「わたしが部屋を開けたことで、埃が悪戯をしたのでしょうか」
「そういうことも……、あるかもしれませんね。火事前には、どういう書類があったのかお聞きしたいが」
「主に彼の仕事関係のもので、取り立てて重要なものはないように思えました」
「そう、ですか」
歯切れが悪い。
おそらく、あの日、書類が焼かれたことに疑問を感じているのだろう。仕方がないことだが、ためいきが出る。どうしてもこうも間が悪いのか。
トラッキングならば故意ではない。
それでも偶然すぎて、素人の陽菜子でさえ
もしかしたら、自分の周囲に悪霊でもいるのだろうか。
気配もなく路上で玜介を刺殺し、そして、部屋に忍び寄って火災を起こすような。
「率直に申し上げますが……」
「はい」
「警察内部でも、あなたを不可解に考える人間は多い。ある意味、あなたは男にとって理想的な妻ですがね」
「……どういう意味かわかりません」
「まあ、それは」
彼は頭を掻いた。
「他の女の元に、失礼、行ったまま帰らない夫を静かに待っているという意味です。つまり、先ほどのお話でも、夫が入るなと言うと、それを完璧に守る。なぜでしょうか?」
なぜと言われて正しい答えなどわからない。強いて言えば夫ではなく、親を心配させたくないのかもしれない。
子どものころ、家族は父の仕事の関係で、ベルギーに住んでいた。
二歳年下の妹がいた。
妹は言葉が遅く多動で、親に面倒をかけることが多かった。考えるより先に手がでるような無謀な子で、五歳の時に近くに流れるスヘルデ川で溺れた。母がほんの一瞬に眼を離した隙の出来事で、近くにいないと探した母が発見したのは、川で浮かんでいる妹だった。すでに手遅れだった。
その後、半狂乱になった母を忘れることができない。
陽菜子が小学生の頃だ。
母は慣れない異国の地での生活もあり、その後、精神を病んだ。あのような思いを母にさせたくない。
自分の人生が不幸だと認め、それを親に話す勇気がない。それは陽菜子自身が認めたくない事実でもある。
幸せかと聞かれれば、たぶん違うと曖昧に答えることができる。しかし、不幸かと聞かれると、答えがわからない。明確な幸福という基準が人それぞれであるのだから。明確な不幸も人それぞれだと思う。
「怒ることが苦手なんです」
「そうですか。ところで、それは?」と、彼が聞いた。
貸金庫から取ってきた書類やノートだ。
「夫が持っていた貸金庫から取ってきたのです」
「拝見しても」
「ええ」
一ノ瀬は手に持ったノートを見てから、頭をかいた。
「今更、隠しても仕方ないので申し上げます。あなたは携帯の電源をお切りになって出かけた。あなたは、今日、区役所と銀行へ行き、貸金庫を開けた」
何も返事をしなかった。つけていると彼は言いたいのだろう。
「これをお借りして良いでしょうか」と、一ノ瀬が聞いた。
「どうぞ」
「気がつかれたことがあったらご連絡願えますか。マンションのお部屋のほうは検証も終わりましたので、いつお帰りになってもいいのですが、ただ、あのままでお住みになることはできないでしょう」
「ありがとうございます」
一ノ瀬警部はファイルをすべて持って帰った。
その後は何をするでもなく、窓際でぼんやりと外を眺めながら、昼から夜になる都会を眺めていた。
夕暮れ時に会社へ電話すると、警察が訪ねてきたと遠慮がちに上司が伝えた。落ち着くまで休むといいと付け加えた。
窓の外ではビル街に照明がともり艶やかだ。
復職することは難しいと言外に匂わせた上司。金融の仕事は信用が第一だ。警察が来るような社員は困るだろう。わかっていた。
いずれにしろ数年は働かなくても良い貯金はあるし、その上に、玜介が保険金を残してくれたようだ。それに刑務所に入ることになれば、お金は必要ないだろうと、他人事のように考えた。
ぼんやりと、都会のイルミネーションを眺めていると、ドアがノックされた。
(つづく)
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