生を楽しみたい



 ドアを開けると、エプロン姿の東雲がワゴンを押しながら入ってきた。その姿は人を笑わせる何かがあって、無意識に首をふっているのに気づいた。


「さ、一緒に考えましょう。まずは食事です」

「パートタイマーのホテルスタッフ?」

「給仕です、お望みとあらば他のことも……」


 部屋の中央にワゴンを持ってくると、彼はサイドのウイングを広げ、楕円形のテーブルにした。その手際は熟練ホテルスタッフのようだ。椅子をセッティングして、下部の扉を開け、暖かい料理を取り出す。


「メインはオレンジソースを添えた鴨のローストです。シェフ得意料理でね、無農薬の特別契約した飼育農場からフランス鴨を仕入れて、お薦めです」


 できたての料理からオレンジと焼いた鴨の香ばしい匂いが立ち上がった。借りが多すぎて負担になりそうだわと思うと、言葉にしていた。


「負担だわ」

「そこが狙い目です。負けないでくださいよ。いつものクールでできる女でいてください」

「クールって」


 彼は、白い歯を見せて笑った。笑うと、整いすぎて冷たい印象を与える表情が和らぎ、無邪気な顔に変貌する。

 この笑顔に無関心でいられる女がいるだろうか。


「僕は金持ちで、その使い道に困っている甘やかされた坊やだという態度でいてください。いつものように、ちょっと気怠げで面倒臭そうにね。これは、趣味で、退屈しのぎです。殺人犯と一緒の部屋にいるスリルは、なかなか味わえない現実だ」

「喧嘩を売っているの」

「チーフと喧嘩できるなんて」と、彼は大仰に目を丸くした。


 くるくるとよく変化する表情には吹き出すしかない。


「僕は目的に、つまり仕事のことですが。目的を見定めると、他は無視して一直線に向かうチーフの姿を、いつも賞賛していました……。つまり、事件解決に一直線に向かって欲しいと言いたいのです」

「あなたは、わたしが犯人ではないと確信しているの?」


 東雲は肩をすくめた。そして、「どっちでもいい」と笑った。


「いったい、なにが目的なの」

「生を楽しみたいだけです。入社時から、ずっとチーフを見ていました。僕に全く気がつかないあなたに興味を持っているんです。それに、これでも役に立つ男ですよ。コネクションという意味でもね。せっかくだから使ってみませんか?」

「使いたくないわね」


 今日までの苛立ちが八つ当たり気味の言葉になった。彼には我がままを言いやすい。それを許す気安さがあるのかもしれない。


「まったく、飽きない方です。ほら、食べて、このかもは絶品だから」


 フォークで鴨をつついた。少し歯ごたえがあり、肉が含まれたオレンジソースが口内に広がり絶妙な味だった。


「さてと」と、スタッフ用のエプロンを外すと言った。「それで、貸金庫の中身、警察が持って行ったそうですね」

「地獄耳ね」

「だから、ここは僕のフィールドですから」

「じゃあ、もし、警察に渡したくなければ出来たってことかしら?」

「ええ、もしお望みならばですが。しかし、その時は覚悟しなければなりません」

「つまり」

「つまり、警察に知られてしまった以上、協力的な態度をしたほうがいいと思いませんか? 渡さないとなると、別の覚悟が必要になってくる」


 もちろん、そうに決まっている。しかし、警察が渡したスマホをホテルに置いた方がいいと、アドバイスしたのも彼である。


「そうね。ところで、パソコンにデータを入力したものは残っているのだけれども、パスワードがわからなくて開くことができないわ」

「見せてください」


 彼はパソコン画面を開いて、それから新しいデータファイルを入れた。


「思いつくパスワードは入力した?」

「そう、ありきたりな。誕生日とか、まあ、そういうものは」

「ご主人がしそうな。誕生日の数字でも、例えば変更したりしませんか。そういうご主人独特の癖ってのを知りませんか」


 数字。玜介は文系だが数字にも強かった。しかし、癖と言われてすぐに思いつかない。


 ──わたしたちの関係は薄い。


 お互いに相手の薄い殻を破らないようにしか接してこなかった。


「几帳面な人でしたか? それとも大雑把な?」

「見た目は無頼で雑駁ざっぱくな、でも、仕事に関しては几帳面な文系の人間だったわ」

「文系で几帳面な人でしたら。記憶するにはだが、簡単に知られないパスワードとなると……。特に今回のような秘密にしたい事柄の場合は。ご存知ですか? パスワードを作る、いくつかの方法論があるんです。彼のような人間が考えそうなものと言えば、シフトキーを押して数字を出鱈目なものに変換する方法もその一つで。誕生日は?」

「四月三日」

「例えば四と三をシフト変換すると『$と#』になるのですが、こういう方法を利用しているかもしれない。これに自分の名前を大文字小文字で使い分けながら、例えば倉方なら、倉の漢字を変換して『蔵』。これを英語にするとWarehouse。これらを全部足して『Warehouse$#』というパスワードになる」


 画面に入力したがパスワードが違うと出た。単語を逆にしたりして何度か試したが無理だった。


「まあ、調べていくしかないか。時間がかかりそうですね。前に話した、賢い僕の友人に頼みましょう。コンピュータに演算作業をさせた方が、人間の処理能力よりも何億倍も速い。彼に頼めば警察が見つけるより、あるいは、警察では無理かもしれない……。ご主人がパスワードに使いそうな数字や好きな色や趣味や、ともかく思いつく限りのデータを紙に書き出してくれませんか。ご主人のご家族のインフォメーションも含めて、もちろんチーフのこともね。結婚記念日とか、なんとか記念日とか」


 ホテルの便せんにメモした。

 なぜ、彼に従うのだろうか? 少し疑問を感じたが素直に従った。東雲には人を従わせてしまう、なにかがあった。


「明日までに、彼が使いそうな言葉や数字を書き出すわ」

「それ以外に、なにか貸金庫にありましたか?」

「そうね」と、言いながら皿の上の薄く切られたパプリカをフォークで刺した。

「原稿用のノートがあって、倉方玜一郎、お父さまのことを調べていたようね」


 東雲は顎に手をあてて誠実に聞いていた。その時、ふと、彼について何も知らないと気がついた。こんなふうに真面目で優しげな眼をしていたとか。そして、何より、自分が他人といて寛いでいることに驚いた。


 友人たちは陽菜子といると寛げると言うが、逆に陽菜子は人といると疲れる。他人の話に興味を持って聞き役になること、時には助言しながら向きあうことは神経を使う。


「その元データは警察が持って行ったのですか」

「ええ」

「話のなかでキーとなるのは、姫野という女性、それから小学校の訴訟事件、徳岡議員ですが……、それらを端緒に調べてもいいかもしれない」

「今度は探偵役になるつもりなの?」

「いけませんか」


 なぜ、そこまでという言葉を、また飲み込んだ。


 東雲は陽菜子を探るように見た。ふたりは暗黙のうちにお互いの言葉を飲み込み、視線を皿に落として、冷めた料理をフォークでかき回した。妙に胸のなかがざわざわする。


(つづく)

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