プロフェッショナル
「古川という女性をご存知ですか? 保険の外交をされている方です」
「古川さん? さあ、どういう方かしら?」
「少し太めの背の低い女性で三十代前後、保険会社に勤めてらっしゃる方です」
「その方? 古川さん……って方、残念だけど記憶にないわ。仕事柄、お名前を覚えるのは得意ですけれど、ただ、時にお酒で記憶が逃げていくこともあるから」
「お酒に飲まれることがあるのですか?」
「そういうこともあるの」
彼女の表情に影がさして、薄く哀しみを帯びた。紅色にさしたアイシャドウが飾る目が潤む。
それは意味ありげで謎めいて、弱々しく、守らなければならない女に見えた。プロの女として魅力的に見せるコツを
陽菜子は妙に感心してしまった。
時おり、人が自分の外見につけた姿形と内面との違い。あるいは、自分がそういう人間であると思う姿と、他人の評価は一致しているようで、ほとんど自分自身さえも欺くほど違うことがある。
姫野と古川と異なるタイプの女たちの、真の姿など伺い知りようがない。玜介が彼女たちと付き合った理由も。
東雲がグラスを振って氷を鳴らした。その音で彼を見ると、こぼれんばかりの笑みを浮かべている。
それから、目を細め、小さく「黙ってて」と唇で形作った。
「徳岡先生が人を殺したという話を聞いたが」と、彼がほほ笑んだ。
「まあ、怖い」
「本当のことですか」
「なにがお聞きになりたいの?」
「事実なら、その詳しい話を教えてください」
「まあ、そんな真顔で聞かれると……、ドキってするわよ」と、彼女がはぐらかす。
「僕は本気で聞いてます」
彼女はグラスの酒を継ぎ足した。
「玜ちゃんから聞いたの?」
「そうです」
東雲は自信ありげにうなづく。玜介と会ったことなどないはずなのに、陽菜子は思わず彼の横顔を見た。東雲は視線を動かさず、ただソファに置いた指先で、陽菜子の太ももを軽く弾いた。それは、黙ってという合図のようだった。
「徳岡先生はね……」
少し考えるように口をすぼめ姫野がほほ笑んだ。その拗ねたような甘い顔は、彼女をとても可愛く見せた。
「怖い話って、ほんと? って聞くと、いや、冗談だよと、そういう寝物語とお話したのです」
「なぜ、そんなお話をされたのですか」
「玜ちゃんは幼なじみなのよ。とっても昔、小学生の頃からの。近くのお兄ちゃんで幼馴染みなのよ」
彼女の小学生時代、おそらく父親が自殺した頃からの知り合いということになる。もしかしたら玜介のために、彼女は徳岡議員に近づいたのではないか。
直感だったが、はっとして彼女を見ると、意味ありげに目を合わしてくる。
彼女が刃物で脅したのは真実かもしれない。幼馴染みである玜介は、姫野にとって特別な存在。あるいは、初恋の相手だったか……。近所のお兄ちゃんは大切な思い出なのかもしれない。
「そうでしたの」
「そう、そういえば、玜ちゃんが徳岡先生のことで変なことを言っていたわ。なんでも、先生は事故以来、ひとが変ったと噂で聞いたとか」
「事故?」
「ご存じないの? 随分と昔のお話らしいけれど、徳岡先生は生死に関わるような自動車事故を起こして、それで右足が不自由になったのよ」
彼女は唇の両端を曲げて笑顔を作った。それは少しぎこちない笑顔で、素の彼女が垣間見えた。
「玜ちゃんとは、クラブのホステス時代に偶然、ほんと偶然に、十数年振りに出会ったのよ。本当に、すぐに玜ちゃんだと分かった……。ほら、あの人って、こう煙草を親指と人差し指でつまんで、それで右の唇で吸うでしょう。あの吸い方、高校生の頃からなの。昔から馬鹿みたいに粋がっていたわね、死んじゃうなんて、なんて馬鹿な人なの、馬鹿過ぎて涙もでない」
玜介は煙草の害が叫ばれるようになっても意に介さなかった。『次の一本までは禁煙するさ』と、笑いながら、煙草を吸い続けた。
若い女は、そういう彼に大人の男を感じる。単なる男の甘えとわかるまでには経験が必要だが、姫野のような玄人の女性をも惹き付けるとしたら、若さとは関係なく、ある種の女たちは、こういう破滅型の男に弱いのだろう。
何か聞きたい事を探している間に、店のドアが開いて、サラリーマン風の男達が入ってきた。姫野は、会釈すると席から離れ彼等を迎えに出て行った。彼女の嬌声が聞こえてきた。
(つづく)
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