ムスクと石鹸の香り



 姫野から肉体に浸みたコロンの香りが漂ってくる。ダークなムスク系の男を引きつける匂い。

 陽菜子は香水をつけない。ロジェガレのオードトワレを手首に軽くつける程度で、主張の強い香水が好きではなかった。


「ママが、こんな早くからご出勤とは、嬉しいな」

「東雲さまの御曹司がいらっしゃるのですもの、と・う・ぜ・ん……、でしょ?」


 東雲は慣れた様子でレミーマルタンのボトルを入れた。寛いだ様子で、あえて言うなら午前中に会ったマザーとまったく同じ態度。

 人は相手によって、本人も意識しないで、微妙に態度がかわる。警官に話しかけられれば緊張した様子に、ビジネスではかしこまった態度であり、友人とは砕けたといった具合に。


 彼は、常にまったく同じだった。


 それは驚嘆すべきことだと思う。おそらく東雲は強い自我を内に持っているのだろう。彼の本質がわからない。そういう意味では、これまで他人に興味を持っただろうかと、ふと考えた。

 傷つかないために張り巡らせた陽菜子のよろいは、鋼鉄のようだ。


「彼女が倉方さんです」

「まあ」と、姫野が驚く振りをした。


 それは全く驚いていないか、あるいは、何事にも平静に対処する術を心得ているためなのか、判断がつかなかった。


「倉方さまの奥様?」

「ええ、そうです」

「この度はご愁傷さまです」


 姫野は陽菜子たちの向かい側のスツールに軽く腰を下ろした。それから、レミーマルタンのボトルから酒を継ぎ、コップに両手を添えると「どうぞ」と微笑んだ。


「夫のことで、お聞きしたくて参りました」

「わたしのわかることでしたら」

「夫との関係はどういうものだったのでしょうか」

「まあ」と、再び彼女は高い声を上げた。「それは率直にお応えしたらいいのかしら? それとも、少しは嘘も混ぜて?」


 魅力のある女性だ。言葉使いは嫌味だが、話し方が好ましく嫌悪感を与えない。陽菜子が同じ言葉を使って、同性に嫌われずに、さらりと言えるか自信がない。


「率直にお聞きしたいのです。夫を刺した犯人をどうしても見付けなければならないので。それから、夫に嫉妬することは遠い昔に忘れました」


 彼女は眼をくるりと上にあげて、そして微笑んだ。


「まあ」と、シナを作って東雲に顔を向けた。まるで弱い女性が救いを求めるかのように。「それはわたしのテクニックをお教えするくらいに率直でいいのかしら?」

「どうぞ、彼女は動じないでしょう」

「でも、信じられないお話ね。嫉妬はされないの?」と、言ってから笑いながら付け加えた。

「わたしたちのお仕事は嫉妬で成り立っていますのよ」

「夫をご存知なら、彼がそういう人ではないとお分かりだと思います」

「玜ちゃんは、ごめんなさい。お店ではそう呼んでいましたの。玜ちゃんは不良で、そう、ちょっと前の言葉でチョイ悪かしら? とても可愛げのある男でしたね……」


 最後の言葉に少し感情が滲んだ。玜介に好意を持っていたにちがいない。


「彼はね。わたしが仕事で、ある方と懇意にしているから、その事を聞きたいと言ってきたの」

「徳岡参議院議員のことでしょうか」

「まあ、それもご存知なの。警察の方並ね」

「警察が来たのですか」と、東雲が口を出した。

「ええ、そうよ。とてもいけ好かない方々がいらして、いろいろ根掘り葉掘り、それこそ、とてもしつこくお聞きになったわ」

「お話になった同じことをお聞きしたいのですが」

「まあ、同じだけ?」と、彼女は嫣然と笑った。

「いえ、できれば少し上のバージョンで」


 陽菜子に顔を向けると姫野は口許を緩めた。


「このひと、面白い方ね。奥様は、こういう男の方達にもてるのね」


 不意打ちの言葉に戸惑ったが。答えないほうがいいと経験で知っている。人は話過ぎて、後悔する。


「それで?」と、東雲が救ってくれた。

「そう、徳岡先生とは七年くらいのお付き合いかしら、頼りになる方よ。困った時にね。例えば、こうしたお仕事をしていますとね。お付き合いしたくない方とも……」

「それと、倉方玜介氏がどう関係するのでしょうか」

「玜ちゃんは彼のプライベートな付き合いを知りたがっていたわ」

「例えば」

「例えば怖い方々との。先ほどお教えした先生にお頼みする怖い方とは、また、別の。あまり公にはできないけれども、裏の世界に生きてらっしゃる方々」

「つまり、闇社会との繋がりがあるという意味で」

「そうね……。日本ではなくて、外国の方々とお付き合いがあるのよ」と、彼女は声を顰めた。

「外国? どちらの」

「さああ、でも、北方の国じゃないかしら。母国語が英語ではなくて、そんな国の方って、どこかしら……」


 徳岡はかって左翼関連の組合に所属していた。松山がソビエト連邦と言った、その関係とまだ繋がりがあるのだろうか。ロシアに分裂して組織は崩壊したはずだが。玜介はそれを調べていたのか。


「繋がりがあるのですか?」

「よくは存じません。でも……、時々、こちらに接待として外国の方を御連れになっていました」

「それはロシア?」と、陽菜子が言葉を挟んだ。

「いろいろな方々。外交上でのお付き合いと仰っていました。政治的な、わたしの想像を述べてもいいかしら?」

「お願いします」

「怖い方々とは、お互いに相互利益、その相互利益から得た情報で表の方々とお付き合いしてらっしゃるの。そういう事情通が、あの先生の強み」


 この世界で生きる女性が真実だけを話すと考えたら、おそらく、陽菜子は余りにもウブだ。


「実は、ある方から、あなたが刃物で玜介を脅したとお聞きしましたが」と、保険外交員古川の言葉を思い出しながら聞いた。


 姫野は嫣然えんぜんとほほ笑んだが、それに応えなかった。応えないがために馬鹿げた質問だと暗に匂わせた。では、なぜ古川は、わざわざ教えたのだろう。すべてが雲をつかむような話だった。


(つづく)

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