高級クラブ



「少し歩きませんか」


 東雲の視線が、どこか面白がっているように感じた。上目遣いに見つめると、なぜか心が重くなる。

 彼の影が歩道に細長く伸びていた。少し前を歩いていた陽菜子の影は背の高い彼と同じ高さに重なる。


 世間的には疲れ果てているべきなのにと思うと、バカバカしくなってくる。玜介との関係は夫婦というより知り合いに近い希薄な関係だった。それでも、世間では夫を失ったばかりの女が若い男と海沿いを散歩していたら、どう思うのだろう。


 世間、世間、世間……。


 母はつねに世間に心を砕いて神経を病み、陽菜子に言った。


『ちゃんとしていなさいね』


 海から吹く潮風が髪を乱した。


「どうかしましたか?」

「いえ、夫を失ったばかりで、こんなことをしていて」

「こんなこととは?」


 陽菜子は返事をしなかった。


「それは常識とか、世間とか、チーフのこだわりですか」

「まあ、そうね。夫を失ったばかりの」


 彼はおおらかに笑った。

 仕事で知っている彼とは別の、たくましく頼り甲斐がある様子だ。会社では、こうした面を抑えていたのだろうか。


「そこは、放っておいて。事件に戻ってみませんか。そんなことを考えてる場合じゃないですよ」

「……」

「整理してみますよ。まず、倉方玜一郎氏は自分の過ちを気付き、それを騙されたと表現した。第一の疑問は誰に騙されたかということです。次にその翌々年に自殺された。第二の疑問はなぜということです。妻の自殺が原因ということですが、これが真実なのか疑わしい」

「どうして?」

「それは単純な問題です。チーフ、仕事から離れ鈍くなりましたね。つまり、ご主人は何かが疑わしいから調べていたのでしょう」

「つまり、あなたは義父の自殺と関係する人間が犯人だと思っているの?」

「さあ、そこまではわかりません。一つの可能性です」

「もし、そうだとして、そして、主人が調べていたことが原因だったとしたら?」

「その可能性も否定できませんね。そう考えていくと、疑わしい人物に徳岡議員が浮かんできます」

「大変な相手に手向かうことになりそうね」


 東雲は立ち止まると、海岸沿いに造られたフェンスをつかんで、大きく息を吸うと、こちらを見てほほ笑んだ。


「ワクワクしませんか?」

「全く」と、性急に答えた。


 東雲は整った顔を、こちらに向けドギマギするほど長い時間、見つめてきた。


「ご主人はどんな人でしたか?」

「夫は……、複雑な男よ。わたしとともに眠り、虚しいと言いながら時間を過ごし、急に愛情深くなったり、わたしに幸せかと聞く。何かを常に求めていたけれど、それは決して得られない何かで、もし、運良く、その何かが手に入れば、これは違うと言いだしかねない。自分を神だと思い、ゴミだと思っていた人よ」


 彼は何も言わず、急に話題を変えた。


「とりあえず、予定通りに姫野という女性が雇われママをしているクラブに行ってみましょう」

「……、高級クラブなの?」

「まあ、そこそこのですね。知人から紹介してもらっていますから」

「あなたって」

「僕って?」

「とても性格が悪いわ」

「どうして」

「先ほど、お会いしたマザーの後に、お酒を飲む場所にって」

「おやおや」と、彼は陽菜子を見ながら苦笑いした。「チーフが、そんなに敬虔けいけんな方だったとは」

「そう、わたしは信心深いの」

「それは、驚きです、だからと言って、銀座のママに信心がないとは言えませんよ。彼女たちは、ある意味、聖女ですから、男にとって」




 夕刻近く、クラブに向かった。店は銀座の外れにあり、テナントビルの三階。エレベータ内は狭くガタガタと機械音がうるさい。外観とは異なり実際の建物は古いのだろう。


蘇芳紅すおうべに』と看板がある店の、両開きの木製ドアを開くと同時に深紅の血液が目に飛び込んで来た。それは錯覚で、シャンデリアに赤い絨毯が反射しただけだったが。


 店のインテリアは暗めの微妙な赤系統の色だ。それほど広い店ではなく、特に想像していたようなゴージャスな雰囲気ではなかった。どちらかと言えば品が良い。

 時間が早いために、まだ客はなく、入店するとホステスが数人で出迎えてくれた。


「ママに会いたくてね。東雲です」

「まあ、素敵な女性とご一緒ね」


 すぐに見覚えのある顔……、例の姫野が出て来た。

 映像ビデオで見た女性よりも貫禄があった。艶やかな装いで、威圧されそうな女性。有毒性の花、ジギタリスが紫の衣を纏っているようだ。実際は三十代なのかもしれない。嫣然えんぜんとほほ笑み、上目使いに陽菜子達を見ると席に案内してくれた。


(つづく)

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