白い病室と十字架
病室の窓から湾岸道路が見え、その先に冬の海が広がっている。
正午近く、太陽が真上にあり、光を浴びて海が煌めいていた。波しぶきが白く泡立ち、いさぎよいくらいに青い。海底に溜まった汚泥を隠して、なぜ、かくも青いのだろう。美しすぎて、かえって悲しくなる。
「倉方先生との不幸な裁判についてはご存知なのね」
「はい」
「もう随分と昔のお話ですよ。半年くらい裁判が続きました。組合の方々が学校まで、それは、それは大変な日々でございましたよ。それでもね、神さまは上手い具合に、そうした試練に打ち勝つ力を与えてくださるものなのです。その時は大変だと思っても、イエス様はきっと良いように取り計らってくださいますよ」
マザーは穏やかな細い声で、修道会や教師、父母たちと力を合わせてその試練を乗り越えたと淡々と語り続けた。
白を基調とした病室で、置かれた十字架やマリア像の絵のためだろうか、時が歩みを止めて、ゆったりと静止していくようだった。
「それからね」と、少し悪戯っぽい表情をしたマザーは付け加えた。
「神さまのなさることの常にですが。わたくしたちは、そういう時に奇跡が起きたとお話しするのですよ……。倉方先生が、その後、学校に訪ねて来られました」
「裁判の後ですか?」
「いいえ、裁判がおわって何年も後になってですよ。確か、ソビエト連邦でゴルバチョフ氏が共産党書記長を辞任した年、何年でしたっけ」
陽菜子の記憶……、無口な父がソビエトが崩壊したなと言った。
その前年に妹が亡くなったばかりだった。妹以外のことが、はじめて家族の話題に乗ったが、母は全く無反応で、立ち上がるとテレビのニュース番組を消した。まるで父を罰するようだった。
「一九九一年ですね」
「そう、よく覚えていますね。わたくしのもとに謝罪に来られたのです。ご立派ですよ。ある年代を過ぎて自らの過ちに気付き、それを
「何をお話になったのですか?」
「だまされたと後悔されていました」
「どなたに、あの、だまされたのですか?」
「同士の誰かだと思いますが、とても悩まれたのだと思います。わたくしどもの学校をお辞めになってから、お気の毒なことに、正規の教員として雇う学校はなかったそうね。当時は代用教員をしているということでしたが。神さまの御計らいは、本当に不思議な形で行われるものです」
マザーの唇から神という言葉が出る度に、その存在はより身近になった。落ち窪んだ目がさらに透明に神の存在を告げる。
と、奇妙な声がした。毒蛇が口をあけて威嚇するような声。
──シャアアアアアァ……。
はっとして、周囲を見たが、なんの変化もない。
老齢の修道女は緩やかな表情ですわっている。
──玜介は彼女に会っている。
理由はわからない。
それは天啓のように頭に浮かんだ言葉だった。彼はマザーと出会った。しかし、彼がどう感じたか、それは想像外で。彼は神と対極にいる男だ。神を信じるくらいなら悪魔に魂を売ることを選ぶ、そういう男だった。
「一九九四年のことです。倉方先生が自殺されました。そのことをご存知ですか」と、東雲が優しげな声で陽菜子達の会話に割り込んだ。
「お祈りいたしましょう」
マザーの表情は全く変らない。ただ十字架に向かって祈りを捧げた。
「そう……、倉方先生が、大変に不幸なことですね」
「そして、最近のことですが、彼女の夫、倉方先生の息子ですが刺殺されました」
「世の中は益々と
「そして、彼女が倉方さんの妻が、殺人犯として疑われています」
刺殺とか、殺人犯とか……、この修道女の前では恐ろしく不謹慎だと感じた。マザーの両耳を押さえて、そうした言葉から守りたい。せめて、この清らかな修道女だけは、そうした人間の闇から遠く離れて欲しかった。
その時、はじめて東雲がなにか得体の知れない人物に思えた。彼も、玜介と同じように複雑なものを抱えているかもしれない。
「お祈りしましょうね。神さまは常にあなたと共に歩んでおりますよ」
マザーは陽菜子に確認することもなく、動ずる風もなく、そう語りかけてきた。それから、「この年になりますとね、誰を信頼していいのか、だめなのか。わかるようになるものです」と、ゆっくりと呟いた。
口を開くと泣きだしそうだと思った。マザーの膝に泣き崩れ助けを求めたい。神経が張りつめ、そして、壊れようとしていた。平静さを装いながらも感情が爆発しそうになる。
「わたくしはね。もう長くはないでしょう。それは分かっております。そういう時に、あなたにお会いした。これも偶然ではありません。全ての出来事は偶然ではなく、神さまの
マザーは、最後にそう告げた。
(つづく)
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