聖なる人
「どうかした?」
東雲の声が耳もとで聞こえた。
パソコン画面の玜介に釘付けで、彼の横顔が触れるくらい近いと気づかなかった。
ときどき、彼は自分との距離感を間違えている、と思う。
あわてて顔をそらしたが、あわてた自分の顔もそらしたかった。
不注意だと思うと、あの川が頭に浮かぶ。
大雨のあと水かさが増して、濁流となって流れていくスヘルデ川。なぜか、引き込まれそうになり、思いとどまった時のことを。
東雲の息遣いが、川を見て喜んでいた妹のようで、背筋を伸ばして、顔を引っ込める。
彼は何も言わない。
まるで陽菜子の態度がおおげさみたいに、静かに、落ち着いた様子で、ふっとほほ笑んだ。
「このビデオで、何かわかったの?」
「これだけで、一連の謎が簡単に解けるようなら、僕は協力しませんよ。知れば知るほど深みに
彼は、なにも気づかない様子で、あっさりと言った。それで安堵するしかない。自分が自分でないようで落ち着かないが、これ以外に興味ないという態度に徹して映像に集中した。
──映像、そう映像を見て、なにがわかるの?
徳岡が周囲から恐れられている存在とはビデオからわかる。テレビや新聞でよく顔を見るような派手な議員ではなく、玜介のことがなければ名前さえも記憶にない議員だろうが。
「ビデオについては調べておきます。まだ中途ですから。さて、次は姫野さんと対決に行きますか? それとも、マザーと?」
「マザー?」
「ええ、元聖テレーズ小学校の校長で、マザー
「ご存知なの?」
「僕らの世間は狭いのです。マザー天神ノ宮は同じ階層に……」と、言ってから彼は言葉を濁した。
セレブの世界と言いたいのだろうか。夏休みには軽井沢の別荘で再会を喜びあう人びとだ。マザーの出身が同じなのだという意味に違いない。
「知り合いというわけではないのですが。教会でお会いしたことはあります」
「あなたはクリスチャンなの?」
「まあ、そういう訳です。母の実家が代々クリスチャンで、幼い頃に洗礼を受けました。会ってみますか? とても印象的な人です」
「お会いできるの?」
「母に聞いてみましょう。できると思います」
翌日、部屋に電話があった。マザーに会えるから病院に行こうと。その手配の速さに驚きながらうなずいた。
ホテルの地下駐車場に東雲グループの運転手と彼が待っていた。窓がスモークガラスになった車に、スタッフ専用の出入り口から乗りこむ。部屋を出たことに気付かれないようにと東雲が手配したのだ。
病院でも受付を通さずにマザーの部屋へ向かった。
消毒液の匂う病院独特の雰囲気に気後れしながら廊下を歩く。彼は、どんな場所でも、どんな状況でも、一定の態度でゆるぎがない。
背が高く、均整のとれたモデル体型の彼が廊下を歩くと、すれ違う看護師の女性たちは、一様に魅せられたかのように立ち止まる。
一○二二号室の前で東雲は立ち止まった。
ドアをノックする。
「どうぞ」と、細い声が聞こえた。
病室に入ると、老女はベッドではなく、椅子にすわっていた。癌を患っていると聞いたが、その居ずまいからは想像できない。背筋が伸び、穏やかな顔をしたマザーの周囲には目に見えない聖なるベールが掛かっているようだ。
ベッドの傍らに飾り気のない木製の十字架が置かれ、ロザリオが掛けてある。
「こんにちは、マザー」と、東雲が挨拶した。
彼女はすわったまま、軽く頭を下げ、口もとに笑みを浮かべた。それから椅子に、すわるように手を少し動かして指示する。
それらの行動は、深い森にある湖畔のように
陽菜子は、なぜか病室に入ることができなかった。
はっとして、敷居で立ち止まる。
「さあ、入りましょう」と、東雲が促す。
「ええ」
老女はほほ笑みを浮かべている。
陽菜子が正面の椅子に腰を降ろすと、東雲はその背後に立ち肩に手を乗せた。暖かい体温が手から肩へと伝わる。
マザーは、シワの寄った顔で、ほとんど唇を動かさず、ゆったりと細い声で話しかけてくる。
「それで、話をお聞きになりたいのね。わたくしの昔ばなしの?」
「はい」
「では、先にお祈りいたしましょう」
マザーは、両手を組み「神さま、今日はふたりのお客さまがいらっしゃいました。どうぞ、彼等にお恵みをお与え下さい」と、静かに祈りの言葉を続けた。
マザーが顔を上げると、陽菜子に質問を促した。
「お疲れにならないと良いのですが、実は、夫のことで……」
殺人という言葉に
「存じておりますよ。倉方先生のことですね」
どうはじめてよいのか逡巡しているところに、マザーから倉方の名前が出された。東雲の母から先に話があったのだろうか。
「ご存知でらっしゃいますか?」
「記憶は、すぐに消えていきますが、わたくしの覚えていることをお話いたしましょうね」
「お身体の触らない程度に。お疲れでしたら言ってください」と、東雲が気遣った。
マザーが静かに微笑んだ。
(つづく)
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