くちづけ



 清潔なコロンの匂いが鼻腔をくすぐる。タバコと酒のまじった玜介とは……、異なる息遣い。


 拒むことができない。


 東雲が顔をかたむけ唇をよせる。それは、とても穏やかで、触れるか触れないか微妙な距離を行き来した。もて遊ぶように柔らかい感触で、いいかい? と聞かれているような、言葉にならない問いがつづく。

 不思議な感覚。

 狂おしいほどの激しさ、それが玜介だとしたら、あまりに優しい。

 この唇に以前も触れたような、奇妙な既視感デジャブ


 抱きしめられると穏やかな気分に満たされた。誰かに、こうして抱かれたかっただけかもしれない。


 ある程度は予想して、その上に望んでいたかもしれない。

 東雲は急がず、ゆったりと手を這わせて、陽菜子を愛撫していく。玜介のやり方とは正反対の方法で。


 玜介……。


 目を閉じると、玜介の息づかいが聞こえた。身体に這っていく唇。東雲の指が動く。陽菜子は背中に伸ばした手を降ろした。


 彼が動きを止めた。


 唇が離れる。

 彼の目が歪み陽菜子に答えを聞いている。掠れた声で、彼が「なぜ……」と言った。


「ごめん……、なさい」


 陽菜子はバッグを掴むと部屋を飛び出した。

 ホテルの外に走り出ると、みぞれに近い冷たい雨が降っていた。ぱらぱらと降る中を足早に歩いていると少し冷静になれた。


 どちらが先に誘ったのだろうか。


 しかし、それを知ってどうするのだろう。もの問いたげな、少し傷ついた表情をした彼を残したまま、陽菜子は逃げたのだ。


 ──バカみたい。いい歳なのに。なにを怯えているの。


 自己嫌悪を感じながら歩くと、他人の目が怖い。


 ほんの数週間前まで、日常は退屈で平凡なものだった。オフィスビル内で決められた仕事をして、ただ帰る。惰性による繰り返しのなかで、ぬるま湯のような日々を送った。


 ──本当にバカみたいだわ。感情なんてないほうがいい……。ただ、生きてればいいのよ。


 地下街に降りた。すぐに地下鉄の駅が目についた。適当に改札を経てプラットフォームに降りる。

 あてもなく電車に乗った。

 車両音に身を任せながらすわっていると、胸のなかがモゾモゾして焦燥感に襲われる。


「なにをしているの」


 無意識に声を出して頬を手ではさんだ。目を上げると車窓に自分の顔が写っている。

 見知らぬ顔だ。

 そう、この数週間、まともに鏡を見たことがない。ノーメークで目の下にクマを作った女が、こちらを凝視している。


 この顔で東雲とキスしたと考えると血が逆流した。

 頬に置いた手が震え唇を押さえる。その一方で、こんな風に我を忘れることに感動してもいる。生きるということは、おそらく、こうした感情が波立つことだろう。陽菜子は幼い頃から感情を表面に出すことを恐れてきた。


 もう一度、窓のガラスを見た。


 いつからか、緩慢に死んでいった感情が表面に現れている。恥、困惑、生気。笑いたくなった。それから、ふいに笑いだすと止まらなくなった。

 斜め向こうの席に、背広姿のくたびれた男がすわっていて、驚いた表情をして見せた。


「すみません……」と、陽菜子は笑いながら彼に向かった。「とても面白いことがあって……、夫が殺されて、その殺人犯はわたしなんで」


 男は何も言わず頭を下げた。おそらく狂った奇妙な女だと思っているのだろう。


『次は国会議事堂前、国会議事堂前』


 車両にアナウンスの声が響いた。電車がスピードを緩めて停まる。


 国会議事堂……。


 玜介がよく取材していた場所だ。以前、ぽろっと漏らしていた。


『非公式に取材には、国会議事堂とか議員会館に行くと案外と話してくれるもんなのだ』

『人の目が多いじゃない』

『だからさ。どっちに転んでも、注目を浴びたい連中だよ』


 ドアの向こう側、プラットフォームには、乗り込もうとしている客が数人いた。地下鉄から降りると、先ほどの中年男が窓から手を振っている。


 なんだか、ほんわりとした感情に満たされた。


 地下から外に出ると、まだ雲は厚かったが雨はやんでいた。

 国会議事堂の周囲を歩きながら、徳岡議員はいるだろうかと思う。見学者のための窓口案内を見つけ、衝動的に立っていた警備員に尋ねた。


「これから見学したいのですが、できますか?」

「今日の見学は、これからだと午前十一時の回で、十五分ほどお待ち頂ければ、ご案内できますが」と、若い親切な表情の警備員が言った。

「お願いします」

「では、ここにお並びください」


 警備員の言葉に議事堂前の歩道に並んだ。すぐに数名の人たちが後に続いた。定年退職後の夫婦や年配の親子連れなどで、その後に二十人程が続く。


 時計を見て十一時を確認すると警備員が呼びかけた。

 こんなに簡単に入れるとは思わなかった。

 議事堂の待合室で待っている間に洗面所に行き髪の毛を整えた。しばらくして、衛視と呼ばれる案内係が来た。若い女性だった。


 所定の手続きが終わり、荷物チェックなど、空港のような検査があってから、エレベータで議事堂内に案内された。


 古い歴史的建造物がそうであるように、独特なワニスの匂いがする。古い教室などで嗅ぐ、あの匂いだ。見学者の最後尾に付いて、本会議場の正面玄関から右側の通路を歩くと、議員控え室が並んでいた。


「この赤い絨毯は一メーターで幾らくらいだと思いますか?」


 若い衛視が屈託のない顔で見学者に質問していた。幸福そうなカップルが、それに答えて「十万円くらい?」と答えている。皇居の親子連れと同じ空気を漂わせている。なぜ、ああした世界の人びとから遠く離れたのだろう。

 どこで道を間違えたのだろうか。


 どれほど、平凡な世界に恋いこがれても、それは遥か彼方にあった。


(つづく)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る