最終章
インドネシア ビンタン島
今頃、一ノ瀬警部補は何を思っているだろう。
まさか、プライベートジェットで逃亡するなど、考えもしないだろう。機上にいる自分でさえ信じられないのだから。彼らが事実を知ったときの驚きを考えると気の毒に思えてくる。
東雲は向かい側のシートにゆったりとすわっている。
視線を上げると、顔を傾け、問いたげにほほ笑みを返してくる。
「この世にないものの一つってわかりますか」
「いいえ」
「無償の行為です」
「わたしを救うのは無償じゃないのね」
「もちろん、そうです」
「何がほしいの」
航空機内の空気や離陸時の振動、気圧、すべてが不快に感じるのは止めようがない。機械的な匂いが混じった空気に吐き気さえ覚えていた。幼いころから、飛行機が嫌いだった。
「気分が悪いのですか?」
彼が気遣わしげだが、それが煩わしいほど気分が悪い。
「心配ないわ」
いつものように無理をしてほほ笑む。
これまでも同じ方法で笑みを浮かべる。しかし、今は表情を作るのが辛かった。もやもやした気持ちから逃げるために、小窓のシェードをあげ、外に興味があるフリをしてやり過ごす。
人に、いうなれば世の中に
ゴゥーっという低音ノイズが身体と心をさらに
ベルギーにいた幼い頃を思いだしてしまう。そこはいつも寒く。夏でさえも涼しく。長い冬になると、暗く
暗い顔をして泣いていた母。
視線を上げると、正面にすわる東雲と視線があう。
彼はいつものように動揺などしない。いっそ優雅と言えるほどの落ち着きで、正面からまっすぐにこちらを見つめてくる。
「どこに向かっているの?」
「最初はシンガポールです」
「最初は?」
「そこから、船でビンタン島に。日本とは犯罪人引き渡し条約を結んでいないから。まあ、日本は米国と韓国の2カ国以外にはないですが。それから……」
彼は言葉を途中で切った。
たぶん……、
会話の途中に小窓から外を見たからだろう。
それからは余り言葉をかわさなかった。搭乗している間に、東雲がチーフから陽菜子さんへと呼び方をかえた。
それはこの関係が変化したということだ。呼び方を変えて、ぎこちなく「慶輝」と呼んでみた。それは思ったより容易で、ずっとそう呼んでいたかのように、すぐ慣れてしまった。
『おまえは、俺だけのものだ』
いつだったか、玜介が言ったことがある。
『あなたのもの?』
『そう、俺の女だ』
断定的な声に皮肉に唇を曲げた。ほとんど家に帰らず、いろんな所に女がいる男の言葉だから、笑うしかない。結婚しても、しばらく彼を『玜介』と呼ぶことに、ためらった。
その後も、ほとんど名前を呼んだことがない、必要なときには、『あの』とか、『ちょっと』とかの、指示詞や副詞でごまかした。
『私は、自分の男なんて呼べないけど』
『呼べよ』と、彼は両唇を固く結んで笑った。その顔は楽しいとはほど遠く、むしろ泣いてるように見えたものだ。
「なにを思い出し笑いしているんですか?」
「……疲れたわ、眠ってもいいかしら」
「どうぞ、遠慮なく」
機内ではCAが飲み物や食事の手配をしてくれる。東雲は陽菜子のために推理小説やビデオを用意して、ほとんどの時間を個室で過ごした。彼がなにをしているのか知らなかったが、姿をさがすと、たいていはパソコンの前にいた。
九時間ほどのフライト後、ジェット機は高度を下げた。窓に海が広がる。普通のジャンボ機より高度の下げ方が激しく気分が悪くなった。
数十分後、シンガポール国際空港に到着して、タラップを降りると白いリムジンが待っていた。
入国手続きを終え、そのまま波止場まで向かう。チャーターしたフェリーに乗り、ビンタン島に行くそうだ。
「しばらくのんびりとした生活をしましょう。ここで日本の警察につかまることはない」
「わたしは犯罪者なの」
「まあ、容疑者とは言えます」
「そう。でも、あなたも犯罪者になってしまうわ」
「いけませんか」
「そこまでしてくれる理由を探さないと」
東雲は自分の手を見ると、絶望したような顔で首を振った。
「まだ、わからないんですね」
「ええ」
「あなたには、この生活を楽しんでほしいんです。幸せにならなくてはいけない」
「そう」
「彼が」と、言って、リムジンでコートを受け取った青年を東雲はさした。「入国手続きをしておいてくれますから」
フェリーに一時間ほど乗船して、さびれた島に到着した。
ビンタン島の税関はシンガポールとは違い簡易的なもので、すぐ入国できた。
色とりどりのカーテンがかかった屋台もあるカラフルな税関。日本なら、まるで祭りのようだと思うことだろう。
はだしにサンダルを引っ掛けた日に焼けた人たちが、ジロジロと無遠慮にこちらを見ている。
湿気が多く暑い風が顔をなぶる。
また、用意された車に乗った。南国特有の川沿いに茂るマングローブの林を抜け、しばらくドライブすると、いきなり視界が開け、邸宅が現れた。
腰にサロンと呼ばれるロングスカートを身につけたスタッフが、穏やかな顔で出迎えてくれる。
「いらっしゃいませ」
「ここは? 家?」
「いえ、家ではないのですが。別荘みたいなものの、そのレセプションホールです」
「ホテルなの?」
「とも違って、まあ、プライベートな隠れ家を管理してもらっています。しばらく待ってください。手続きはすぐですから」
車から降りると潮風を含んだ、むっとする空気がおそってくる。
舗装道路は濡れていたが、天気は良かった。先には茅葺き屋根の重なる、いかにも南国という雰囲気の邸宅が佇んでいる。
均整のとれた身体で、東雲はカウンター越しにスタッフと話している。
──なんて、まあ、スタイルが良くて、いい男なんだろう。そのことに気づかなかったわ。だからといって、それで感動するわけじゃないけど。
彼が戻って来た。
「いったい、何をしたいの?」
「あなたを幸福にしたい」
「できないわ」
「でも、その努力は踏みにじらないでください」
気温の変化で身体が怠い。でも、全てがもうどうでも良く思えた。それほど暑かったから……、玜介のことも、警察のことも、親のことも。
この気怠い暑さは、すべての思考を停止させる。今のこの瞬間、南国の明るい世界では、すべてがどうでも良いことに思えた。時は常に去り、誰かが死に、誰かが生まれる。それだけの、そう、単純なことなのだ。
(つづく)
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