ニュース報道



「さて、話を戻しますが。では、ご主人とお会いになり、それでどうされたのですか」

「ふたりで帰りました」

「もう一度、最初から聞きますが、ご主人は、どこで待ってらしたのでしょうか」


 缶コーヒーを差し出され、無意識に受け取った。


 会社の裏口を説明して、裏口から帰る理由を説明して、彼が煙草を吸っていたことを話す。裏口に落ちた吸い殻を拾わなければと、漠然と考えたことを付け加えながら、なんだろうと疑問に思った。


 そんなことが重要であるはずがない。それなのに、この警察の男は、さも重要だとでもいうようにうなずいている。


 名前、なんだっけ。

 聞いたばかりの彼の名前が思い出せない。


「では、奥さんはひとりで歩き続けた。そして、来るのが遅いので振り返ったら、ご主人が、その場にうずくまった。近くに戻って、はじめて刺されているのに気がつかれた。と、そういうことでいいのですね」

「はい」

「誰か見ましたか」


 陽菜子は首を振った。


「何か物音でも、例えば犯人の逃げる足音とか聞かれましたか?」

「いいえ」

「そうですか」


 背の高い警察の男は手帳に何かを書き加えると、無意識に「そうですか」と、また繰り返した。


「本当に、お疲れのところを申し訳ありませんでした。署のものにご自宅まで送らせましょう」


 時計を見ると午前三時を回っていた。

 まだ、暗い中を警察車両で帰り、自宅マンション前で意味なく「よろしくお願いします」と挨拶をして車を降りた。


 自室に戻り、すぐに眠れると思ったが、頭が妙に冴えている。


 玜介が刺された。


 なぜ?


 なぜ、あの時、彼の側に駆け寄って、周囲を見ようとしなかったのだろうか。動転していたという言い訳に逃げたくない。夫を刺した相手を見逃したことに苛立ちを覚える。


 玜介が最後につぶやいた『…な』という声を、ただ忘れたかったのかもしれない。彼の切なそうな表情を思いだすと、胸がキリキリと痛む。

 気づくとカーテン越しに光が見えた。


 時計を見ると、午前八時半。自宅に警察車両で戻ったのは四時過ぎだったので、四時間半が過ぎたようだ。眠れたとは思えない。


 ベッドで反転しながら重く沈み込む身体を持て余した。


 固定電話が鳴った。


「チーフ?」


 東雲だ。


「朝のニュースを見ましたか?」

「ニュース?」

「……、ご主人ですが」


 はっとして起き上がった。

 まさか、もうニュースでと考えが及ぶ前に「会社の近くでご主人が刺殺された、とテレビで」と、東雲が告げた。


「そう、大きく?」

「いえ、昨夜遅くに男性が刺されたとだけ。名前を倉方玜介さんと報道していたので。では、ご存知なのですね」

「四時間前に病院から戻ったばかり」

「そうですか」

「お願いがあるのだけど、しばらく会社を休むことになると伝えてもらえる」

「わかりました」


 受話器を置こうとすると、「あの」と彼が言った。


「なに」

「大丈夫ですか?」


 風邪を引いて熱が出たときに言って欲しい言葉だ。

 髪を手でかき乱しながら、「ありがとう」と、受話器を置いた。


 ニュースに出ているなら、家族に連絡したほうがいい。

 両親に、母に知らせるのは気が重い。テレビで報道されたのなら、新聞にもいずれ掲載されるだろう。


 陽菜子はキッチンに行き、選んだコーヒー豆をミルに入れ手で挽いた。

 行動がどこかチグハグなのは、上の空で宙を飛んでいる気分だから。


 コーヒー豆を挽き終わり、サイフォンに入れ、固定電話ではなく、スマホをスピーカーにした。すべてを同時に行いながら、そのどの行動にも実感がない。

 五回呼び出し音が鳴って、受話器が外れる音がする。両親はまだ知らないと、それで確信した。


「お母さん?」

「まあ、こんな朝に珍しいこと。仕事は? 食事はしたの」と、母がいつも通り、矢継早な質問をはじめた。


 次に親戚やら近所の話になることは分かっていた。

 面倒だった。


「お父さんはいる?」と、聞いた。母の対応は父に頼みたい。

「ええ、いますよ。でも、どうして」

「ちょっと、話したいことがあるの」


 母は不服そうだったが、「ちょっと待って」と言って受話器を置いた。『お父さん、陽菜子ちゃんから電話』という声が遠くに聞こえる。37歳になり結婚して、仕事を持っても陽菜子ちゃんと呼ばれている。

 母は決して自分を変えない人間だ。


 コーヒーを口に含むと苦味が強く、舌にささった。


「もしもし」という父の低い声がした。


 はっとしてスマホを耳にあてた。


「あの」と言って、どう伝えたものか迷った。


 父が待っていた。彼は動揺するという言葉とは無縁の人間だ。愚鈍ぐどんとも言える。母の愚痴を常に右から左に聞き流すには、これくらい鈍感どんかんじゃないと心を病むだろう。だから、事務的に話せばよいことは知っている。


「昨夜、玜介さんが。路上で刺されたの」


 一瞬だけ沈黙がして、「生きてるのか?」と低い声がした。


「いいえ」

「そう……」と言って、なにも言わない。おそらく思考停止に陥ったのだろう。

「警察のほうで司法解剖して、遺体がもどるのは、たぶん一週間後ということらしいわ。だから、それから、いろいろ」

「そうか」


 父は「大丈夫か」とやはり同じ質問をした。それで、これから何度も同じ言葉を、いろんな人から聞くに違いないとわかった。


「ええ」と、答えてスマホを切ったとき、手がすべった。


 コーヒーカップが床に落ち、綺麗な茶色い模様を床に広げた。



(つづく)

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