捜査一課の男



 午後になり、警察から連絡が来た。


「大変申し訳ございませんが、もう一度、お話を伺えますでしょうか」と、あくまでも丁寧な女性の声だった。

「あの……」


 言葉に詰まる。

 こういう場合、いったいどう返答したら正しいのだろう。

 昨夜から心は麻痺まひしたまま、泣くこともできない。自分は冷たい。きっと冷たい女なのだろうという気持ちと、疑われているのかもと少し感じたのだ。


 玜介こうすけに連絡しなきゃと考え、笑い出したくなった。

 なんというブラックユーモア。


「迎えの者が参りますので」

「ええ」と答えてすぐ、部屋のチャイムが鳴った。


 モニター画面には女性が映っており、警察手帳を示している。私服警官のようだ。

 早すぎる。

 マンション前で待っていたのだろう。


「着替えますので」

「お待ちしております」


 外にでると普通車が待っていた。

 迎えに来たのは声からすると、たぶん電話をしてきた感じのいい女性。そして、男性と運転者がいた。


 丸の内署に到着すると、すぐに談話室と書かれた小部屋に通された。コンクリートに白っぽい壁紙を貼っただけの殺風景な部屋。


「只今、担当のものがまいりますので」


 泣いたほうがいいのだろうか。でも、たぶん、バッグのティッシュペーパーは切れてるから、鼻水が出たら困るだろう。

 思ったより冷静なのに、陽菜子は驚いた。

 自分を誇るべきなのか、あるいは嘆くべきなのか、そんな全てを、ぶちまけてやりたい衝動がわいてくる。


 ドアがガチャリと鳴った。

 昨夜とは別の男が入ってきた。五十歳を過ぎたあたり、中肉中背。新橋駅周辺なら、どこにでも彼に似た男が見つかる。それほど特徴がない男だった。背後に若い男がいる。迎えにきた車で同乗したひとりだ。


「警視庁捜査一課、え〜とね、篠崎徹です。ども、ども、どうも、この度は大変な……」と、口のなかでゴニョゴニョと語尾をにごす。


 言葉遣いは丁寧だが、圧力を感じた。


 人には相性があるのかもしれない。それは、たいてい第一印象で決まる。人と深く付き合うことを避けがちな陽菜子は、それを相手が御しやすいかどうかで決める。




『君って、つきあえばつきあうほど、自分を隠すんだな』と、学生の頃、玜介はずけずけ言った。

『簡単には人に心を預けないだろう?』

『第一印象で決めつけているわ』

『どんなふうに?』


 そう言いながら、学生時代の夫は眉をあげ目を丸くした。その豊かな表情が可愛いと思った。一歳年上だが、それでも、可愛げを感じた。


『コントロールできるかどうか、かしら』

『そんな怖いことを、口をすぼめて言うなよ。可愛いすぎる』




 第一印象で判断するなら、昨夜会った一ノ瀬は合うほうだし、この篠崎は苦手だ。強いていえば、彼は、故意に不快感を与えようとしている男だと思った。


 彼は無造作にズボンを引き上げてから正面の椅子に、ドサっと腰を下ろした。それから歯を爪楊枝で掃除する時のように息をすすった。


「すみません、立ち入ったことをお伺いしますがね。この歳ですから、遠慮がなくてね、どうも」

「はい」

「ご不快でなければ、ご主人とのなれそめからお聞きしてもよろしいかな」


 玜介との結婚生活。

 彼と結婚してから十二年。知り合って十八年。


 十八年もすぎると、結婚は希薄という言葉で表現するしかない関係になった。最近は月に五日も顔をみれば多いと思えるほど会っていない。まるで単身赴任のようだ。

 空気のような関係と言えば言葉は良いが、ただ単に希薄なだけだった。


 徐々になにかを失っている。漠然と夢想していると、「よろしいですか?」と、篠崎が聞いた。


 それで現実に戻った。


 彼は書類のバインダーを机の上に置くと、陽菜子の名前と年齢、結婚年数や夫の年齢など事務的に確認した。


 彼はすまなさそうな表情を作った。その姿は、あまりに演技じみており感動すら覚える。いくど彼はこういう顔を作りながら、この場に座ったのだろう。犯罪者や犠牲者、容疑者などが彼の演技に不快感を覚えただろうか。


「では、ご主人と、お会いになった時間を正確に覚えている?」

「ええ……。終電に間に合うようにと、オフィスを出たので。十一時を過ぎた頃だと思います。確か十一時五分くらい」

「ふたりで歩いて、裏通りの路地を曲がり、本通りに来たんですな。ご主人はどうされた」

「わたしが、先に、先に歩いていたことに途中まで気付かなくて、煙草でも吸うために立ち止まったのだろうと思って、それで振り返ったら……」


 同じ話をまた繰り返した。

 何度も繰り返すと、カンニングペーパーを読んでいるように思える。そして、これは本当に起きたことなのだろうかと疑問が浮かんだ。


 なにか見落としていることはないのか?

 本当にあの時、何も見なかったのか?

 何も感じなかったのか?


 陽菜子は首を振った。玜介が刺された瞬間は非現実的であり、覚えているのは彼の驚いた表情だけだ。


「なぜ、玜介は……、夫は声を出さなかったのでしょうか?」


 疑問を篠崎にぶつけた。


「肋骨の間を抜け心臓に強い力でナイフが刺さった場合、通常は声もでません。悶絶した状態で、ほぼほぼ即死でしょうな」

「痛みは、あの、苦しさは」

「そりゃ、なんともわかりませんがね。刺されたことはないんで。でもね、殴られたら……」と、また語尾をぼかす。


 篠崎は机に置いた箱の蓋を開けると、ビニール袋を取り出した。証拠品(一)と書かれた袋を見せた。


「ビルの裏口、これが路上に落ちていた吸い殻です」


 袋の中には、1センチほどで消した吸い殻が入っていた。玜介は根本まで吸わずに、すぐ捨て、新しいタバコに火をつける。


「十一本です。十一本落ちていましたよ。吸い殻の残りから換算して、一本に五分くらいかけて吸ったとして、だいたい一時間位を、ども、あの裏口で待っておられたことになりますな」


 一時間……。待つ事が嫌いな男だった。どれほど有名なレストランでも決して並ばない。玜介は、そういうところにせっかちな男だ。


「そんなに……」

「それが驚くことですか」

「待つことが嫌いな人でしたから」

「ま、男ってのは、そういうもんで。私も嫌いですがね、待つのは。特に女に待たされると怒りがわく。ところで、なぜ犯人は、その一人の待っている時に襲わないで、奥さんと一緒の時を狙ったのでしょうかね?」

「わたしが、その理由を知っていると」

「いや、そういう意味ではないのですが……。盗まれた物はない。その上に凶器のナイフ。いわゆるスパイクナイフという細くて長いものなんだが、それを残して犯人は消えた」

「どういう意味なのでしょう」

「つまり物盗りの犯行ではない。怨恨えんこんか。もしくは、これが一番やっかいだが、行きずりの異常者の犯行か……。お聞きしたいのだが、誰かご主人に恨みを持っていた人に心あたりは?」

「恨み?」


 想像も付かなかった。陽菜子は首を振った。


「ご兄弟との仲はどうでした?」


(つづく)


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る