第2章

新たな事件



 古川悦子は不思議そうな表情を浮かべると、泣くことを忘れたようだ。


「今は、そういうことを考える余裕がないので、落ち着いたら連絡します」

「そうですが、一億円ですよ!」


 一億円と、彼女は何度も同じ言葉を繰り返す。まるで、陽菜子が日本語を理解していないと思っているみたいだ。

 彼女とは、たぶん、見ている世界も立っている世間も、まったく違うのだろう。


「ご連絡します」


 古川さん、と相手の名前を呼ぶことができず、中途半端に言葉を切った。それでも彼女は背後から付いてきた。困っていると、客待ちのタクシーが目にはいり、小走りにタクシーに乗り込んだ。


「すぐ、ドアを閉めてください」


 運転手は陽菜子の気持ちに答えるように、古川の鼻先でドアを閉めると車を出した。バックミラーに彼女の姿が映っていた。

 もう二度と会いたくない。

 はじめて玜介を恨んだ。死んでまでも、まだ、こうして、あの男の女に煩わされるなんて。


 タクシーが距離をとったところで、後ろを振り返った。

 女のもとに、ふたりの背広姿の男が近づいている。警察関係者なのだろうか、何かを話していた。


 タクシーが本道に出てから、自宅の場所を運転手に告げた。


「わかりました」と、彼は住所を繰り返して速度を上げた。


 自宅の近くまできたとき、消防のサイレン音が後方から聞こえ、運転手が路肩ろかたに車を寄せる。


「火事ですかね……」


 返事をするのが億劫で、ちょうど消防車が通り過ぎ、そのけたたましい騒音のせいにして何も言わなかった。

 三台の車両が通り過ぎていく。

 運転手が再び車を動かした。彼は返事を期待していないのか独り言のように先を続けている。


「それにしても、ひどい天気だ。わたしは九州で子ども時代を過ごしたんですがね。中学三年で引っ越して、こっちは天気が柔らかいと思ったんですよ。それが最近は、まるで世界の終わりのような雨が多い。荒々しい気候が、北まで来てんですかね。運転する身には嫌な天気でして……」


 自宅に近づく頃、警察車両がやはりサイレンを鳴らして追い越した。


「なんだか騒々しい日ばい」と、九州訛りで彼は不安そうに言った。


 本道から目黒川沿いの道にはいったとき、黒煙が空をおおう不気味な色が視界に入った。なんだか、いやな予感がした。


「奥さん、どうもご自宅に近づけないですよ。規制線が張ってある。どこで火事なんですかね」

「ここで降ろしてください」


 タクシー代を支払い、小さな骨壺を抱えると外に出た。


 強い風が雨粒を伴ってコートを叩いた。雨はひどくはないが、風が強く、水滴が斜めに風に追われて飛んでくる。傘をさすには強すぎる風に、片手でスカーフを出して髪に巻いた。


 人びとが外に出ていた。


 嫌な予感は的中した。黒煙を上げているのは、自宅のあるマンションだった。

 遠巻きに見物している人びとを押しのけて、陽菜子は呆気にとられながらマンションに近づいた。


「信じられない……」


 自宅部分の窓から、寒空にむかって黒煙が、エントツから吹き出す煙のようにわき出している。

 ちがう!

 心の中で打ち消した。マンションにエントツなどあるはずもないが、そういう意味なら、自宅の窓から黒煙が吹き出していることもあるはずのないことだった。


 消防車のホースから消化剤が窓に向かって放たれている。


 足元から何かが崩れて行く音が聞こえた。

 これまで当然だと思っていた現実が消えていく脆い感覚。新聞で読む他人事が実際に起きた時の衝撃に身震いするしかない。


「倉方さまの奥様」と、誰かの声がした。


 振り向くと、女がレインコートを身にまとい、雨に顔をしかめている。確か商社に勤める夫を持つ主婦で、ときどき挨拶程度に頭を下げる間柄だ。同じマンションの下階に住んでいる。


 風の勢いに飛ばされないようにレインコートを両手で押さえていた。

 はっと気がつき無理矢理に言葉を口に乗せた。


「申し訳ございません。ご迷惑をおかけして」

「いえ、この度は、そのご愁傷さまで……」と彼女は言って、陽菜子が抱いている骨壺に目を落とした。


「その」と言いかけて、彼女は困ったように目を伏せた。


 その時、彼女の後方に数人の知った顔が、こちらを伺っているのに気がついた。


「申し訳ございません。わたしも、どういうことかわかりませんが……。火災保険には加入しておりますので、もし、なにかございましたら、どうぞご遠慮なくお伝えください」と、丁寧に頭を下げた。


 その言葉に、女はほっとした表情を浮かべ、それから、すぐにそれを隠して、「まあ、大変なときに、そういうことでは」と、意味のない言葉を繰り返した。


 陽菜子たちが話している間に、窓から吹き出していた黒煙は次第に薄い灰色になり、一筋の煙として消えた。消火できたのだろうか。陽菜子は近所の人に頭を下げながら、消防署員に声をかけるために前に出た。


 その時、肩を叩かれた。背後を振り返ると、警察病院で最初に会った警部補の一ノ瀬が立っていた。


(つづく)

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