新たな容疑者



 古川悦子と名乗った女が、おびえた表情を浮かべた。ときどき、痙攣けいれんのように頭をふるのは癖なのか。それとも、異常に緊張しているためなのか。両手に握ったハンカチがれて、くしゃくしゃなのも気づかない。と、ふいに彼女の目から涙が溢れた。


 なぜ、この女は泣けるのだろう。


「泣いてらっしゃるの」

「ご主人さまは、その、とても」


 そう言って、彼女は言いよどみ言葉を失った。


「とても? どういう意味でしょう。あなたは主人と関係があったのですか?」

「玜介さんは」と、下の名前で呼んでから、すぐに訂正した。

「あの、ご主人さまは、その、とても良い方でした」


 ——良い方。


 あまりに唐突で、その上、あまりに意外な言葉であって、つい吐き出すように笑ってしまった。待合室の窓から背広姿の男達が、こちらを凝視している。


 しかし、良い方という表現は、陽菜子を笑わせずにはおれない。

 面白い男とか、冷笑的な人とか、皮肉だが魅力があったというなら、納得できるだろう。しかし、良い方とは。


 もし玜介に向かって、『良い人ね』などと、この女が言ったとすれば、恐ろしく意地の悪い返答が戻ったにちがいない。もしかすると、彼女はその皮肉さえ気づかなかったかもしれないが。


「似てらっしゃるのですね」と、女は鼻をすすりながら呟いた。

「誰とでしょう」

「ご主人さまとです。あの方も、そんな投げやりな笑い方をする方でしたよね」


 うんざりした。

 この場で玜介の思い出を語り合う気は全くない。


 なぜ、この女は来たのか。保険のことと言ったが、それは言い訳に過ぎない。葬儀に出席したかったのだろうか。


「それにしても、どうして今日が火葬だとわかったのですか」

「あ、あの、仕事柄、葬儀所の方とは」と、言葉を濁して黙った。


 仕事のツテを使い、必死で玜介の現状を調べていたとでも言うのか。

 なぜ、玜介は、こんなふうに女を狂わせるのだろう?


 心が冷える。


「保険のことは、別のときにして下さい。まだ、そういうことに気持ちがまわりません」


 女はすがるような視線を浮かべ、また、涙をこぼした。


 彼がこの女とつき合った理由としたら、臆面おくめんもなく、妻の前で泣く事ができる図太さだろう。自分にはできないと思いながら、一方で、少し羨ましくもあった。


「その、ご主人さまは、誰に、すみません。不躾ぶしつけで、でも、どうしても奥さまに、お話しておかなければと思いましたので」

「なんでしょうか?」

「その、奥さまはご存知でしょうか? 姫野宏美という女性ですが、名前をお聞きになったことは?」

「いいえ」

「実は、のことで、ご主人さまが困っていらしたので」


 この女という声に憎しみが滲んだ。


「夫が困っていた?」


 姫野という名前は記憶にない。玜介は女を平然と利用するところがあった。その冷たさが女たちを逆に惹き付ける。


 女とは矛盾した生き物だ。


 浮気しない退屈な男より、浮気されても自分を最も愛していると思わせてくれる男が好きなのだ。その偽りに気付いてさえも、罠にはまった女は自分自身をだまし、愛されていると思い込もうとする。


 玜介は女を無視することはない。

 そこが彼の困ったところだった。ニヒリストの癖に甘え上手だった。特に酒に溺れると優しい。自分の弱さを平然と見せるズルい男で、素面しらふにもどって後悔する。その繰り返しで、どこかが壊れていた。その不安定さに危険を感じながら、愚かだと思いながら陽菜子も惹かれた。


「ええ、ええ、あの女は、スナックのママなんですが。ご主人のことを、奥さまの前で失礼ですが……。その、ナイフで脅したことがあって。裏切られたとか。激情して、それで今回のことで、もしかして、まだ犯人が捕まってないということなので、警察に奥さまから」


 その先は聞かなくてもわかった。玜介に裏切られた女は陽菜子だけではないということだ。

 さらに別の浮気相手がいたということに、それほど驚かない自分に嫌気がさす。


「倉方さま」と、背後から男性の静かな声が聞こえた。


 とっさに助かったと思った。火葬が終わったのだ。陽菜子は、女に軽く頭を下げ、葬儀場スタッフの案内に従った。


 驚いたことに、女は後ろからついて来た。それは、当然の権利とでも言うような態度で。

 目を閉じた。

 これはもう度を超していると思ったが、しかし、何も言わなかった。


 すべてが終わっても女は別れることが辛そうだ。まさかと思うが、一緒に故人を忍んで泣きたいのだろうか。


 陽菜子は玜介の遺骨を両手で抱えると、さよならと告げた。


「あの、奥さま」


 振り返って彼女を見た。


「あの、保険金のことなのですが……。もし、無事に審査が下りるようでしたら、奥さまには約一億円のお金が支払われます」

「えっ?」


 古川は、また営業用の顔を作り「一億円の」と念を押した。その金額を、陽菜子が聞き間違えてないか確かめるように。そして、なにか期待を込めた視線で陽菜子を見つめた。


 玜介が一億円を残した?


 一億円が欲しくないわけではない。金に無関心という振りをするほど俗物でもないし、贅沢なほど財産があればいいとも思う。

 けれども……。

 陽菜子は楽に生活できる財産はある。そのことを玜介は知っていた。


「それで、先ほど申し上げたように手続きなんですが」と、古川が目を赤くしながら続けた。

「またにしていただけるでしょうか」

「えっ」


 彼女が痙攣けいれんするように頭をふった。その顔には不可解という文字が書いてあった。


「またにしてください」

「あの」

「夫は」と、強い声を出した。「わたしを受取人に保険金をかけるような男ではありません」


 玜介は他人に冷酷なほど無関心になれる男だ。たとえ妻に対してさえも。というより妻にも無関心だった。


 時おり見せる彼の冷たい表情におびえたことがある。

 冷酷という暴力に対してではなく、人間が自分以外の者に対して、実は冷酷であるという事実を、彼を通してあばかれることが恐ろしかった。


 彼に愛情はあったのだろうか……。その愛情を受け取るだけの意思が自分にあったのだろうか。


(つづく)

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