王子の権威



 悪い夢を見ているのだろうか。


 火の手が収束してから、自宅に入る許可がでた。

 部屋のなかは消火剤の白い泡がところどころ残り、火で黒ずんだ壁が剥き出しになっている。幸いにも他家への延焼は免れたが、部屋は住める状態ではない。


「出火原因は、これから調べますが」と、一ノ瀬は人好きのする顔で聞いた。

「なにか……、原因に心当たりはありませんか?」

「いいえ」


 呆然とするしかなかった。


「これから現場検証をさせてもらいますが、立ち会いますか?」

「あの」

「葬儀場から戻られたんですね」


 警察や消防の人間が土足で部屋に入っている。

 寝室のドアを開けた。

 窓が割れ、ベッドも水浸しの状態である。陽菜子は目に付いた部屋着を持ち上げた。水分を含んで重く、腕にずっしりと重量がかかった。


 はっと気がついてポケットをさぐると、昨日発見した鍵があった。


「この部屋が出火場所ですね」


 背後から一ノ瀬の声がした。

 鍵をポケットに忍ばせ、一ノ瀬の声がした部屋――玜介の仕事部屋だった――に入り、呻き声を押さえた。

 壁紙は全てがれ書籍は、丸焦げになっている。煤となった紙類が、人の動きに合わせて舞い上がり、ゆれている。


「この部屋が火元のようです。随分と紙類が多かったようですが。なんの部屋ですか?」

「主人の仕事部屋です」


 一ノ瀬は黙って、陽菜子の表情を伺っている。


「玄関の鍵は掛かっていましたな。窓の鍵も施錠してある。消火活動で窓ガラスを割ったそうですが、それ以外に特に割って侵入した形跡はない……」


 彼は歩きながら独り言のように呟いた。


「また、密室です」

「そう」

「これも、確認ですが。何時に家を出られたのでしょうか」

「朝の九時頃……、葬儀場での予約でそうしたのです。帰ったのは、ご存知でしょう」

「つまり」と、彼は腕時計を見て言った。

「今は午後一時十二分です」

「そうですね」


 その先の言葉をなくした。


「しばらく、どこかに身を寄せる場所はありますか」

「実家に帰ることはできますが……」


 実家に帰りたくはなかった。この事態へ両親を巻き込むことに躊躇した。


 ——そう、また自分を騙している。


 実際は、親に説明することで巻き起こる騒動と、母の落胆した表情を見るのを避けたかった。幼い頃から良い子であることに慣れた陽菜子は、どんなことであれ不幸な様子や失敗したことを親に話すことができない。


「ご滞在される場所をお教えください」

「なぜ?」

「しばらくはご連絡できる状態でいて欲しいのです」

「そうですが……、スマホを切っていて」

「わかっています」


 一ノ瀬は背後で控えていた男にうなずいた。彼がポケットからスマホを取り出した。


「これをお貸しします。警察の一部の人間しか番号を知りません。こちらをお持ちいただけますか?」


 黒色の鈍い光を放つスマホを受け取った。裏をみると備品ナンバー四八と書いてある。


「お借り致します」

「こちらから、ご連絡したいこともありますので」と、言ったとき、警官の一人が一ノ瀬を呼んだ。


「警部補」

「なに?」

「あの、奥さんに会いたいという人が来ていますが」

「そう」


 誰だろう? また近所の苦情だろうかとうんざりした。一ノ瀬に頭を下げて玄関に向う。

 そこに東雲が立っていた。


「会社から香典を届けにきましたけど。なんか、とんでもない場所に飛び込みましたね」


 彼が白い歯を見せ、品良くほほ笑んでいる。


 まるで、『今日もいい天気ですね』というような気楽な態度。それは、東雲らしいというか。会社でも、どれほど仕事が立て込み、緊急スケジュールで周囲が苛々している時も、Englishman In New Yorkを、口笛で軽く吹いているような男である。


 ある種、別世界で息をしている人間。別の言葉ではエレガントな青年とでも言うのだろうか。


「どなた?」という一ノ瀬の質問に、東雲は自然に、つまり警察を相手にするときに、多くの人びとが反射的に感じる緊張感もなく、「倉方さんの部下です。香典を届けに、それから上司からの伝言もあります」と言った。


 あろうことか、彼は、更にくつろいだ様子で「チーフ。大変そうですね」と付け加えた。


「ええ、まあ」

「大丈夫ですか?」


 肩をすくめるしかない。


「お名前を聞いてもよろしいですか」と、一ノ瀬が手帳を出した。

「東雲です。東雲慶輝と言います」

「どういう字を書きますかな?」

「ひがしにくもです」

「ほう、あの東雲グループと同じ苗字ですか」

「そう、あの東雲グループと同じ名前なんです」


 背の高い均整のとれた身体で、東雲は礼儀正しく答えていた。


 一ノ瀬の言う東雲グループとは、国内のみならず海外のホテルや旅館を傘下に持つ総合商社である。戦時中に軍需産業でのし上がった彼の曾祖父、東雲鴻一郎が一代で築いた巨大企業であった。


 創業者の鴻一郎は、とかく噂のある人物だったが、孫には彼とは異なる人間性を求めたようだ。つまり生活に無関心でいられるほど贅沢を知る人間という意味においてだが。英国やスイスの名門校に留学させ、貧困とは無縁の育て方をしたらしい。そうした育ちが彼を特別な存在に見せるのだろう。


 一ノ瀬はしばらく彼の顔をみてから、一歩下がった。東雲は他人を自然に礼儀正しくさせる何かを持っている。陽菜子はそれを王子様の権威と心のなかで揶揄やゆしていた。


「チーフ。ここで過ごすつもりですか? なかなかトリッキーな生活ですね」


 緊張した火災現場のなかにあって、のんびりした様子で彼がほほえんだ。


「何か対案があるの?」と、仕事のように質問した。

「ええ、かなり有効な案が、ともかく外へ出ませんか?」


 一ノ瀬の表情を伺った、彼は火災現場を見ていた。研ぎ澄まされた感性で陽菜子を観察していることもわかった。おそらく、夫殺害の第一容疑者であり、部屋を放火したかもしれない陽菜子を。


 そういうこと全てが、もうどうでも良い気分だった。おそらくこの一週間の出来事が、常識をはじき飛ばしたのだろう。


 東雲は手を差し出した。そして、陽菜子はその手を取った。もしかしたら、その場にいた人びとが、彼を若い愛人だと誤解したかもしれない親密さで……。

 陽菜子は、またひとつ警察に動機を提供したことに気づいた。


 東雲が屈託のない顔で、ほほ笑んでいる。

 その様子は、あまりに自然で、おそらく、彼はこの状況を内心、楽しんでいるのかもしれない。


 ——愚かな男だ。


(つづく)

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