山下公園



 外は、嵐が治まり雲間から光が差していた。


「あの刑事の顔をご覧になりましたか?」と、東雲は愉快そうだった。


 端正な顔がクシャっと崩れ、まるで子犬が笑ったかのようだ。心の底から面白がっているようで、この顔で、何人の女を落としたのだろう。

 ただ、会社で笑ったところを見たことがない。軽く唇を曲げ笑みを浮かべる程度で、喜怒哀楽が見えない青年だった。


「ええ……。おそらく、これで警察内部の唯一の味方を失ったわ」

「困りますか?」


 背中に冷たい風が通りすぎた気がして、背後を振り返った。


「困るかしら……」と、返事ではなく自分に向かった。

「さて、どうしますか」

「時間があるのなら、海まで連れて行ってくれる?」

「どこへでも」

「横浜の埠頭まで」

「わかりました。駐車場に車を止めてあります」


 来客用駐車場に旧型ジャガーのクーペタイプが停車していた。派手な赤で目立つ車だった。


「兄に借りてきました」

「お兄さんに? 自分の車はないの」

「うちは質実剛健を家風としています。兄は外れてて、まあ、家族の厄介者なんですが」

「あなたは?」

「もちろん、僕はホープです」と、彼はまるで、この顔を見よとでも言いたげに、両手を自信満々に広げた。


 無視して車まで行くと、東雲は紳士的に助手席のドアを開けた。

 穴倉のようなシートにもぐり込む。

 彼は運転席に回り、右側にすわるとハンドルをにぎり、運転に集中した。高速に入り南東方面に向かい、恐ろしいほどのスピードを出した。


 陽菜子の運転なら五十分以上かかるであろう距離を、三十分ほどで横浜の山下公園に到着した。


「ありがとう。お世話になったわ」


 礼を言って車を降りた。


 公園前通りの黄金色に染まった銀杏並木はまだ美しく、道路には落ち葉が散乱している。


 葬儀、火災、それから、警察……。

 頭のなかで無意味に単語を繰り返しながら、舗道側から柵を越えた。真直ぐに海に向かって、ただ闇雲に歩く。


 夕暮れ近い山下公園は空虚な寂しさが、よく似合う。

 親子連れが消え、これからは恋人たちが寄り添う、そのあいまの短く中途半端な刻限。

 営業マンらしい男がひとり、ベンチで暇をつぶしていた。おそらく帰社するには早すぎるが、かといって今日一日の成果もなく、時間をつぶしている中年の疲れた男。彼は顔を上げて、興味なさそうにこちらを見ていた。。


 波が洗う埠頭まで、陽菜子は歩いた。そして、フェンスに身体を預け、骨壺の蓋を取った。中に入っていた灰と骨を迷いもせず海に流す。


「玜介……」


 ——この場所で学生の頃にデートした。あれは夜だった。


 恋人同士がベンチにすわり、ストリートミュージシャンの奏でるアルトサックスの曲に酔いしれている夜。


 遠く、ホテル群のイルミネーションが水面に反射していて、なぜか、その瞬間、陽菜子は、過去にも未来にもない完璧な時間だと感じた。


『玜介。あのサックス吹きは何を弾いているの』


 彼は答えなかった。

 ただ、陽菜子の腕をつかむと、その場に立ち止まった。


『なあ』と彼は言った。


 彼の顔を見た。ゴツい両手が頬を挟み、まるで逃げるのを怖がるように、強く不器用に彼はキスをした。荒れた唇が戸惑うように陽菜子の唇に押し付けられる。いきなりで驚き、頑固に唇を閉じていたのを覚えている。


 もう十年以上も昔のこと。今、立っている場所だった。あの夜も肌寒い日で自然に身体が震えると、彼がコートの前を開き抱きかかえた。すっぽりとコートに包まれる。


 今日も寒い……。

 嵐で濡れた喪服は生乾きで、夕暮れが近づくにつれ、冷たい風が髪のスカーフを揺らすが、しかし、コートに包んでくれる男はもういない。


 規則的に寄せてくる波は、玜介であった抜け殻をどこまで運んでいくのだろう。


 そのまま待っていれば、背後から玜介が声をかけてくると思った。振り返ってみた。それは馬鹿げている上に無駄なことで、芝居がかってさえいる。


 どれほどの時を、そうして立ち尽くしていただろうか。寒さに震えながら公園通りに戻ると、東雲がジャガーの傍らで、まだ立っていた。


「なにをしていたんですか」と、彼が静かに聞いた。

「お葬式を」


 彼は陽菜子と空になった骨壺をみて、それから、話題を変えた。


「上司からの指示を伝えにきました」

「そう……なの」

「その、会社にも警察の人間が。あれですよね、警察官ってのは、なぜ、あんなに」と、珍しく彼は言葉を選んだ。


 なにも言わなかった。


「しばらく休みを取って欲しいと」

「ええ」


 辞表を書いて欲しいのだろう。


「休みだけでいいの?」


 東雲は答えなかった。


「それにしても、あなたがそうした伝言を伝えるとは思わなかったわ。総務の人間ではなくて」

「可愛くない人ですね」

「どういう意味?」

「嘘ですよ。つまり僕が頼まれた訳ではないという意味ですが、小耳に挟んだので」


 冷たい風がまた吹いた。身震いすると東雲がトレンチコートを脱いで、肩にかけてくれた。


「お送りします。乗ってください」


 断るには疲れすぎていた。陽菜子は助手席に乗り、どこに行けばいいのか考えた。


「近くのパシフィックホテルまで送ってくれるかしら」

「ホテル住まいをするつもりですか」

「ええ」

「ところで、会社に警察がきたのは事実です。桂木部長が応対していました……。かなり深刻な事態ですね」

「そのようね」

「なにか対案があるのですか」と、彼は陽菜子の言葉を使った。

「なにも、残念だけど」


 エンジンをかけて、車内をヒーターで暖めるためだけで、彼は一向にアクセルを踏むつもりはないようだった。


「ところが、僕にはあるんです」

「そう、でも、今は疲れているの」


 彼はアクセルを踏むとジャガーを発進させた。

 ゆっくりと公園通りを北に向かい、湾岸道路に入り東京へ向かったのを陽菜子は気付かなかった。車内は温かく、いつのまにか眠ってしまった。


 長い一日だった。


(つづく)

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