イーストクラウドホテル



 目覚めたとき、自分の居場所も時間もわからなかった。

 目を開ける前に、自宅ではないと匂いで気づいていた。徐々に頭がはっきりしていく。

 居心地の良い大きなベッド、両手を広げても端に届かない。足元を照らすオレンジ色の明かりで、ホテルだと思い出した。


 昨夜、東雲が車で向かったのは、彼の一族が経営するイーストクラウドホテルであった。いつのまにか車の中で眠っていた陽菜子は『着きましたよ』という言葉に従った。ドアを閉める直前に清算するわねと言うと、東雲は笑って首を振った。


 そのまま疲れきって、適当に服を脱ぎ、ベッドに倒れただけ……。


 ——何時なのだろうか?


 頭を巡らせると、頭上に大理石の石板があり、さまざまなボタンが埋め込まれている。左右を記号で表したボタンを押すと、自動的に窓のカーテンが開いた。暗い室内に太陽光が射して、まだ夜だと思っていた陽菜子は眩しさに瞬きした。


 日が高い。

 大雨の翌日だからか、透き通った青空が広がっている。たぶん、外の空気も澄んでいるのだろう。こんな雨上がりの日の、野外の匂いが子どものころは好きだった。

 あれはベルギー王国のこと。夏の雨あと、樹木から発せられる香りが記憶に残っている。空気が綺麗だと思った、もっとも古い記憶だ。

 今では、そんな自然の営みにさえ無関心だけれど。




 時計をみると午前十時。


 陽の光が眩しく、眼を細めながらベッドから降りた。ふかふかの絨毯が素足に心地よい。

 洗面所に入り、鏡に映る他人の顔をした女に驚いた。髪が乱れ、灰色のクマを作り、頬のこけた見知らぬ女。左手をあげると鏡の女も手をあげる。


 首を振って、冷たい水で乱暴に顔を洗う。


 一週間も手入れしていない肌から、カサカサになった皮膚が剥がれる。タオルで拭き、備え付けの化粧品をみるとゲランだった。

 ローションを付けるたび皮膚に吸い込まれていく。そうしてもう一度、鏡に写して年相応に戻ったと満足してから、念仏のように生きなければならないの、と言い聞かせた。


 部屋に脱ぎ散らかした喪服を見ると気分が沈む。おぼろげな記憶では自分で脱いだはずだ。今更ながら下着姿の自分に呆れ、ホテルのガウンをはおった。


 窓側にはマホガニーでできた高価なデスクがあり、その先に別のテーブルがあった。テーブルの上に果物とクッキーが置いてある。赤く熟した小さめのリンゴを取って、かじりつき窓枠に座った。


「美味しい」と、無意識に声がでていた。

 もう一口、リンゴをかじると、汁が唇から弾けた。掌で拭って舐める。


 大きなガラス窓から皇居が一望できる素晴らしいロケーション……。


 昨日は無分別だったと思う。

 多くの警官がいる前で、東雲の手を取り、そのまま去った。


 このままでは殺人犯になってしまうかもしれない。保険金一億円という金額を客観的に考えると、笑いの発作が起きるほど喜劇的だ。


 贅沢な室内で、殺人容疑をかけられた女の最後の楽しみがりんごをかじること。そんなふうに、皮肉な思いで自分を嘲笑ったが、それでも、どこか他人事だった。この非現実感は部屋の贅沢な作りが見せる錯覚なのだろうか。


 ベッド脇の電話をみるとメッセージランプが赤く光っている。少し迷ってから、ボタンを押した。


『おはよう。よく眠れましたか』


 東雲の声だった。


『この部屋を自由に使ってください。チーフのことだから、すぐ帰ろうとするかもしれませんが、待っていてください。ともかく、僕は真面目に仕事します。さぼってもいいのですが、そうすると、益々、チーフに逃げられそうなので、真面目に仕事をしております。ところで、お節介ついでに、言っておきますが、部屋のクローゼットに姉の服を借りておきました。姉に言わせると、数年前のジル・サンダーが出したコレクションは秀逸だったそうで……。チーフはダークな服しか着ませんよね。しかし、僕は、ペールトーンの柔らかい服が似合うと前から思っていましたよ。怒られそうなので、電話で言っておきます。では後ほど』


 クローゼットを覗いた。


 淡いヌードカラーのワンピースやスーツに、柔らかいピンクのカシミアコートが掛かっていた。ダボとしたコートで、羽織ると裏の白地が襟元から裾にかけて見える。


 ふだん陽菜子はアルマーニのダークスーツを着ていた。


 自分は、かっちりしたスーツが好きなのだろうか? 


 答えはわかっている。陽菜子が好きなのではなく、玜介が好きなのだ。


『おまえは背が高いから、ダークな細身の服が似合うよ。それにアルマーニを着こなすためには、それなりのスタイルがいる。そのスタイルを維持するためにもな』と、彼が望んだ。


 玜介は甘えながら、支配することを欲していた。そう言えば、玜介の前に少し付き合った男はコンサバ系の服装を好んだ。それは陽菜子の父の趣味でもあった。


 つきあってきた男達も、その時々のファッションで区別できる。コンサバの男、アルマーニの男、そして、今度はジル・サンダー。


 こういう時、いつも不安になる。周囲の人間に合わせて生きていくのは楽だが、自分が消えている。父から恋人、夫へと合わせるだけだ。


 ──いったい、わたしは誰なのだろう。


 乾いて皺の寄った喪服にため息を付き、諦めてクローゼットの淡いベージュのワンピースを身につけた。服に会わせたパンプスも用意してある。全身が映る鏡があったが無視して、バッグからスマホを取り出し、電源を入れロックを解除した。


 この一週間にかかってきた会社や親など多くの履歴が残っている。

 その中に玜介の同僚の名前があった。


 松山友之というカメラマンで、玜介が信頼していた男だ。一度、挨拶した覚えがある。コメディアンのような、おどけた顔に黒ブチ眼鏡が不格好に乗った男で、不思議な哀愁を持つ男だった。


『ご連絡してください。火急の用件で』と、毎日、同じ言葉、同じニュアンスで留守録に入っていた。あの男らしい。


(つづく)

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