僕に似ている
意識がもどったとき、東雲の膝に頭を乗せていた。彼の心配そうな端正な顔が近づいて驚いた。どんなときでも余裕を見せる彼には珍しい。
──本気で心配しているよう。
「わたしは?」
彼は痛ましそうに眉間にシワを寄せた。それは陽菜子の知る彼とはちがう。何かを哀願するような、苦悩に満ちた表情を浮かべている。
彼の手は無意識に陽菜子の髪を撫でている。その姿は、どこか迷子の子どもようで心が痛む。
──この
「わたしは……」
「意識を失ったようです」
「そう」
「なぜ、わたしを助けてるの?」
「なぜだか、まだ、わからない?」
弁護士事務所のソファで横になっていた。坂野上はいない。ふたりだけだった。
「わからないわ」
「何が?」
「なぜ、あなたがわたしを……」
「愛しているということですか?」
愛している?
愛など幻想に過ぎない。誰がこれまで真実の自分を愛しただろうか。誰もが幻想を見て、自分の幻想を愛していると錯覚している。母も、玜介も、その上に東雲はどんな幻想を抱いているのだろうか。
正面から彼を見つめるが、いつも強気の彼が、なぜか目を合わせない。どこか遠くを見ていた。
「なぜなの?」
「愛していると告白して、なぜって聞かれたのは、はじめての経験だ」
「そんなに多くの人に告白してきたのね」
彼は悲しげな表情を浮かべ、ほほ笑んだ。例の、とびきり魅力的な顔で、この顔で愛していると言われ、抵抗できる女はいるのだろうか?
「何を考えてる?」
「何を?」
「小首を傾げて、ああ、たまらない。あなた得意のおうむ返しですね。僕は愛しているって言ったんです。これは簡単なことじゃない。僕たちは似ているんです。だから期待はしていない」
「……」
彼の膝から起き上がろうとすると、肩を押さえられた。
「幼い頃から無理をして周囲に合わせて、そして、自分自身を見失っているところが。僕たちはとてもよく似ている。まるで分身のようだ」
「分身」
「そう、分身」と、言って彼は渇いた声で笑った。
「覚えていますか? 以前に乳母に似ていると言って怒らせたことを」
「ええ、遠い昔のようだけど」
「あの人は僕を生んだ人でした」
ふらりと後れ毛が目にかかり、深い瞳に陰影を落として、彼を年齢以上に大人びて見せた。
東雲は、「陽菜子」と小さく呟いた。
唇が触れ、それは軽く陽菜子の喉元に落ちて行く。この感覚を感じることに、どれほど飢え乾いているのだろう。
──なにもかもが馬鹿げている。いったい、わたしは何をしているって言うの。この若い男に玜介を見ているわけじゃない。わけじゃないけど……。
肩を押す手を払いのけて起き上がった。
頭が少しふらつく。平衡感覚がずれて、壁が歪んで見えた。目を閉じて、そして、しばらくそのままでいた。
「気分が悪い?」
「少し、でも、大丈夫。なんだか自分でないような。疲れたわ」
「わかっています。しかし、もう少し無理をさせなくちゃならない」
「それで、あなたは徳岡議員が犯人だと思っているの?」
ドアが開いて、坂野上が顔を出した。
「眠り姫は目覚めたのか。まさか、王子がキスしたとか」
そう軽い調子で言ってから、
「来たぞ!」
「ああ」
「本当にいいのか?」と、坂野上は不安そうだ。
東雲に手を取られて立ち上がった。
「ああ、迷惑をかけた」
彼は窓まで歩き、そして、のぞき見た。彼を追って窓際で同じようにビルの下を覗いた。
道路にはミニチュアのようなパトカーと黒塗りの車が停まっている。
「僕を信じてくれますか」
「ええ」
「では、ついて来て」と、言ってから坂野上に向かってうなずいた。
「そうか。では、行け。急ぐんだな! 時間がない」
彼らの後について廊下を抜けた。坂野上が、奥にある部屋のドアを鍵で開くと、部屋ではなくエレベータだった。
「これは特別な客に使用するエレベータで、社外秘だ」と、彼は続けた。
「三十分は稼いでやる。その後は、くそくらえだ」
「すまん」
東雲に腕をとられ、中に入ると、彼はボタンを押した。ボタンは上下の二カ所しかない。
「逃げるのはまずいわ」
「信じてくれ。今はそれ以外に方法がない」
エレベータは地下駐車場に直通だった。東雲は黒色のメルセデスベンツまで歩くと後部座席のドアを開けた。窓はスモークガラスで内部が見えない。
「隠れて」
彼はサングラスを掛けると運転席に座り、イグニッションキーを押した。静かに発進する。前に彼が運転していた旧型ジャガーとは別人のように、ゆったりとした運転だった。
(つづく)
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