夫は誰の子ども?



 弁護士事務所に入ると、正面が受付で、その先に大きな嵌め込み窓があった。空と皇居と高層ビルを切り取っている。


 坂野上は受付の女性に、「どの部屋が空いている?」と、聞き「ああ、そう。わかった」とうなずいて、それから。こちらを振り向いた。

 人懐っこい笑顔が好ましい。


「おや、風景が気になりますか? ちょっと遠いけど、ほら、小さくスカイツリーが見えるでしょう。あの無闇に高い尖塔がね。あれを見るとバベルの塔を思い出すのは、僕だけでしょうかね」


 うっすらした雲に抱かれたスカイツリー、そう言われればそんな気がする。

 彼は返事を待たず先を急ぐように、「どうぞ、こちらに」と言った。


 廊下の先、三番目のドアを彼は開けた。

 部屋には先客がいた。高窓から外を眺めている。背の高い、すらりとした均整のとれた後ろ姿、東雲慶輝だ。ドア音で気づいたろうが、彼は振り向かなかった。


 ホテルを飛び出したことで、怒っているのだろうか。そんなことを気にするだろうか。


「やあ、来ていたのですか」


 東雲は振り返ると頭を手でかき、なぜか少しだけ恥ずかしそうにうつむいた。


「それで、状況は?」

「まあ、すわろうや」


 ソファを坂野上は指さしてから、自分は向かい側に腰を降ろした。


「倉方さん、どうぞ、おすわりください。説明します」


 東雲は窓際に立ったままで、陽菜子はソファに腰をおろした。


「さて、警察での状況は非常にまずいと推論されるね。取りあえず任意同行の拒否をして、お連れしたが。逮捕請求が司法に出されるのは時間の問題だ。なぜならば、目撃者の証言が出て来た事実は否定できない」

「目撃者は誰かわかるのか」

「いま、調べている。おい、ほら、慶輝、依頼人が驚いている。お前、説明したのか?」

「いや」と、言って東雲ははじめて陽菜子を見た。

「彼は僕の大学時代からの悪友で、今回の事件について前から依頼をしていた。勝手でしたが」


 機械的にうなずいた。しばらく、彼は無言で、それから坂野上の隣に腰をおろした。


「ところで、奇妙な事実があった」と、坂野上が言った。

「新たなものかい」

「倉方玜一郎氏の最初の妻……、斉木洋子さんに会って来たのでね。ほら、言っただろう。玜介氏がDNA検査をしていたことが気になって」

「なるほど」

「斉木さんはお年だが、しっかりした女性でね。で、彼女によれば倉方玜一郎さんの再婚は、玜介氏が誕生されてからだそうだ。まあ、ここはわかっていることだが」


 ふたりはソファでお互いの顔を見ながら話していた。正面にすわる陽菜子がそこにいないかのようで、居心地が悪い。


「元妻が言うには、玜介氏は彼の子ではなく、前に付き合っていた男性の子だという」

「それは、彼女の憶測なのかい?」

「誕生日の日程が合わないと。男は騙されるがわたしは騙されないとか、おおいにツバを飛ばして言っていたな。これは彼女の言葉のままでね。なかなかに真実味があった。なぜならば、僕は老女を信じている。おばあちゃんの隠し味的な真実は深いからね」

「その話は理屈に合わないと思わないか。妊娠がわかって結婚したというが、彼女の話には矛盾点がないのかな。元妻としては、不倫の末に離婚されたわけだから」

「するどい突っ込みありがとう。僕も失礼を顧みずに聞いてみた。すると、玜一郎氏は塔子さんに夢中だったそうで。騙されているのもわからずに結婚したようだ。夫が四十歳過ぎて女に狂った。生真面目な男が妖婦に騙されたとか言っていましたね」


 玜介にとって父親の元妻という女性。その女性が生きていて、実の両親はふたりとも自殺している。


「もし、元妻の話が本当なら、埋葬された玜一郎氏が玜介氏の父親ではないことになる。しかし、DNA検査では父親だった」

「そこから導きだされる推論は二つある。一つ目は……、元妻の証言とは違い、彼の父親は玜一郎氏だった。二番目の可能性は、埋葬された男性が玜一郎氏ではなく、別の男で、その彼が本当の父親だった」

「そうそう、ご名答って。てか、簡単すぎる推論だが。そして、埋葬された男性の身元を大胆に推理すると、その人間は」


 二人は言葉を止めて、陽菜子を見た。


「その時期に徳岡氏は事故を起こして、しばらく公から消えていた」と、坂野上が言った。

「事故については調べたよ」と、東雲が答えた。

「自損による交通事故で全身打撲で、顔に大きな損傷を受け右足を複雑骨折した。緩やかなカーブでハンドルを切り損ねたそうだ。顔面の損傷が大きく外科手術を受けたが、かなりの傷で二度に渡る大手術だったようだ。

 当時の形成外科医を探し出した。医師の話ではね、徳岡氏が自分の顔写真を見せて、元通りにと頼んだそうです」

「大事故で顔か……。それも珍しい事故だな。なぜならば、普通はエアバッグで顔面の大きな損傷は免れる。車のエアバッグが開かなかったとでもいうことかね」

「まさに。そういうことだよ」

「不自然な事故にちがいない。不自然なことがある時は、そこに秘密が隠されている。なぜならば、自然は神の法則だからだ」


 坂野上はニッと笑い手帳にメモすると、陽菜子に向き直った。


「さてと、時間はもうないですが……」


 どういうことなのだろうか?

 そう考えた瞬間、徳岡に感じた奇妙なデジャブを思い出した。その姿が玜介と二重写しになりハッとした。


「彼は、とても似ている」

「誰が誰に似ているんですか?」と、坂野上が聞いた。

「徳岡議員の話し方が、そのイントネーションが夫ととても似ていたのです。だから、前に会ったような、懐かしい気分がしたのだわ」

「恐ろしく馬鹿げた推理だが、あるいは、そうであるなら、辻褄が合っている。倉方玜介氏は自分の秘密を知って、それを調べていた」


 ドクンと心臓が鳴った。


「倉方氏が徳岡氏に成り代わったのですか?」

「大いに興味のそそられる推理だね」


 そうであるなら、玜介は……。


 二度、父親に捨てられた。


 最初は実の父親に、次に育ての父親に。彼の斜にかまえた孤独な表情が浮かんだ。無言で壁に寄りかかり煙草を立て続けに吸っている姿が映像となってあらわれた。その姿に色はなく、薄灰色の風景に溶けこんでいく。


 ──玜介に会いたい。彼に会い、そして、なにも知らなかったことを謝罪したい。かわいそうな、玜介。


 東雲と坂野上が話していたが声が遠かった。


 顔が熱い。冬だというのに身体中が熱かった。ドクンドクンと心臓の音が聞こえる。戦慄するような感覚が全身をおおい、身体に酸素を送ることを拒否した。肺が痛みを覚え、呼吸ができない。


「陽菜子!」


 声が耳元で聞こえたが、誰かわからなかった。


「玜介……」と、呟いた。


 なぜ……。


 薄暗い夜のなかを、静かに歩いているのは誰だろうか、声をかけても言葉がでない。意識がはるかに遠のいていった。


(つづく)

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