ある年の、ある酷暑の夏



 ふたりの年表以外には、新聞記事の切り抜きがスキャンされている。倉方玜一郎が遺体で発見されたという記事であった。


 一九九四年の夏は猛暑で火災が多発した年だ。

 秋になっても夏日が続いた。陽菜子は小学生で、学校の鉢植えが夏休みの間に枯れたことを覚えている。日本全国で降水量が少なく、大規模な渇水もおきた。


『九月二十日、七月中旬から行方不明になっていた倉方玜一郎氏(五十一歳)が狭間山中の川辺で発見された。猛暑と少雨により河川の水位が下がり、山間監視員が見回り中に発見、警察に通報した。遺体は腐乱状態であったが、遺書が残されていた。また、倉方氏は行方不明になる直前、神経科の病院で鬱病と診断されており、親族から捜索願いが出されていた』


 玜介のデータファイルが特別のものだと思い過ぎていたようだ。わざわざ貸金庫に入れていたのだから、重要な内容だと思っていた。しかし、ここから特に彼が刺殺された理由が考えつかない。


「これで、何がわかるの?」

「実は、この略歴と実際に起きて公になっている事実とを照らし合わせてみたんです。亡くなる一年前、彼が五十歳のころです。人生の岐路のような事件があってね……、内容は異なりますが、偶然が重なっている。ところで、徳岡議員の交通事故が公式に調べても残ってないのです。不思議じゃありませんか?」


 彼の言う、五十歳の頃。玜介の母が自殺しており、徳岡は暴漢に襲われていた。


 そして、彼は最後のデータファイルを開いた。DNA鑑定書のスキャンファイルだった。


 調査日は二〇一五年で、対象は玜一郎の遺骨と玜介自身の唾液とあった。結果は九十パーセントの確率で親子関係にあると記載されている。


「なぜ……。夫は父親とのDNA鑑定を依頼したのかしら?」


 そう言葉にしてから、はっとした。

 二〇一五年といえば、玜介の無精子症がわかった翌年である。その頃から、彼は微妙に陽菜子を避けるようになった。なぜ、あの年に父親との親子鑑定を依頼したのだろうか?


「なにか思い当たることでもあるのですか?」

「いいえ」と、答えた。

「さっぱり、わからない。親子が親子鑑定して、事実であることを調べるなんて」

「玜一郎氏の自殺と妻の自殺は関係があるのでしょうが、二年の間にご主人は相次いで両親を失っています。これに徳岡が関係があるのは間違いない」


 あの頃から夫の帰りが遅くなった。それ以前も仕事で帰宅は不規則だったが、自宅に全く帰らなくなることはなかった。


 今でも思い出す。

 一週間くらい連絡もなく家を開けて、それから、夜中にマンションのドアの鍵を開ける音で、玜介が帰ってきたと気がつく。

 ある日、同じように遅く帰ってきたが、彼は部屋に入ってこなかった。鍵だけが開いて、ドアが開いた気配がない。


 しばらく、放っておいてから、玄関に行くと……。

 ドアが開き腕が伸びてきた。手には小さな箱をもっており、ドアの前で揺れている。


『これ』と、甘えた声が聞こえる。

『受け取ってくれ、腕が痛いんだ』


 その夜の彼も、いつものように酔っていた。

 苛立たしさと憐れさから、彼の謝罪を受けいれる。甘いものが好きではない玜介が、チョコレートケーキを帰り道で買う姿が浮かび、もの哀しさを覚えた。


「夫は、とても、なんていうか。魅力的な人だった。たぶん、普通ではない育ち方が、彼を一般の人にはない特別の存在にしたのかもしれない。ほっとけないような。そんな憎めない人だった」


 東雲は陽菜子の顔を見て微笑んだ。


「やけるなあ……、と言ったら怒りますか?」

「え?」

「僕は……、実は女性にモテるようです。自分の魅力とは言いませんが。興味を持たれるのは東雲グループの後継者だからでしょう。しかし、あなたは最初から全く普通の人と同じように接してきた。それが演技でもなかった。そういう人に出会ったのは初めてです」


 彼が何を言いたいのか理解できない。だから、いつものように聞こえない振りをした。しかし、いつもとは違って、少し努力を要した。


「このデータを解析する前ですが、新聞社の知り合いから、玜一郎氏の裁判記録と、それに関係する人物を調べ、マザー天神ノ宮に確かめました。徳岡議員の若い頃の写真を見てもらった。すると、あの当時、裁判所に押し掛けてヤジを飛ばす組合側のひとりに似た顔があったそうです。つまり、ある時期、彼等が活動を共にしていたと推理しても、そうは的外れではないと思います」

「左翼系の活動ということね」

「そうです、彼等の接点はそこにありますが、当時、そうした活動をしていた、あるいはそれに傾倒していた人間は多いから、それだけでは接点があったとは言えない。しかし、裁判に関係していたとすれば顔馴染みということができる。それから面白い事実を見つけました」


 東雲はいたずらぽく顔をゆがめた。一気に若返り、それがとても魅力的にうつると知っていると思う。


「玜一郎氏の妻、ご主人の母親である塔子さんですが、徳岡議員が若い頃に勤めていた家電メーカーで事務員として働いていたのです」

「え?」

「彼女は二十八歳で玜一郎氏の後妻となった。ひと回りほど年上の、それもバツイチ男と結婚したわけです。そして出産後に籍を入れています」

「義父と徳岡議員の関係は謎が多いということね。彼に会ったことはあるの?」

「まあ、パーティで少しばかり。議員という人種は概ね人誑ひとたらしで、これは、僕の祖父が良く使っていた言葉なんですが、人の興味を逸らさない人物が多い。徳岡議員は、どちらかというと、実直な人間でした。単なる印象ですが。なんて言うかな。とてもソビエトのスパイと親交を結ぶような人物に見えない。ただ、他人に見せる顔をいくつも持っている人もいるから、なんとも言えないですが」


 東雲はパソコンにある資料を読むために眉間をしかめている。そんな真剣な表情をしたり、ときにおどけたり、その声は甘く低かった。


(つづく)

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