優しい男



 ──この人はわたしに興味があるのだろうか? 

 ──あるいは、なにか計画でもあるのだろうか?


 東雲は柔らかい表情を崩さず、食べ終わったワゴンを片付けて部屋を出て行こうとしている。歩いた先で、ふっと足を止め、こちらを振り返った。


「お休みなさい」

 

 彼の声は、これまで聞いたことのないような優しさで、低く深く肌に染み込んだ。過去に感じたことのないような感情がわきあがり、胸の奥が重くなると同時にじわりと蕩け、あたたかいものがあふれる。


 彼は穏やかにほほ笑み、ドアから去った。


 閉じたドアから視線を外すことができない。

 と、再びドアが開き、「明日の夜ですが、ご一緒に飲みに行きましょう。例の姫野という女性の店にですが、どこにあるか調べておきます。じゃあ、今度こそ、おやすみなさい」


 反対する前に彼の姿は消えていた。




 翌日は土曜日で、よく晴れていた。

 階下のレストランで朝食を取っていると、東雲が脇に立った。


「ここに住んでいるの?」

「そういう訳ではないですが」と、言ってから、彼は向かい側の席に座った。


 年配の給仕係が、見計らったように新しいカップを置き珈琲を注いだ。


「お食事が終わったようなら、少し付き合っていただけませんか? 見せたいものがあるのです」

「ええ……」


 ナプキンで口許を拭って立ち上がった。東雲は珈琲カップに口を付けると――それはスタッフへの配慮に見えた――すぐに、立ち上がった。


 休日というので、背広を脱いだ彼はタックの入ったベージュズボンと淡い色調のカシミヤのセーターを着ている。今朝、陽菜子が選んだ優しい色のワンピースと良い組み合わせだった。


 エレベータで地下に向かい、宴会場が並ぶ廊下を歩き、突き当たりのスタッフ専用と書かれた扉をカードキーで開けた。


「この奥に、ホテルのセキュリティールームがあります」


 すぐに別の扉があり、生体認証システムが取り入れられている。東雲は目をレンズの前に置いてから、次に認証番号を入力した。微かなカチという音がして扉が解錠された。


「どうぞ」


 内部には何台ものパソコンが壁一面に据え付けてあり、眼を奪われる。中心の大きなデスクには作業用パソコンがあり、ふたりの人間が働いていた。彼等は東雲を見ると立ち上がろうとした。


「いや、そのままで、奥にいくから。準備はしてくれた?」

「はい、全てのデータを出してございます」

「……チーフ、こちらです」


 スタッフの様子から、というよりホテルに宿泊した時から、彼の地位と権威を感じる。部下として働いていた東雲と実際の彼の姿にズレが生じてくる。


 彼らしさとは何なのだろうか? それを言えば自分らしさが分かってないのだから、他人のこと等わかるはずがない。


「なにを考えているんですか?」


 セキュリティールームの隣にある個室に入ると彼が聞いた。


「なにを考えている?」

「おや、得意の鸚鵡おうむ返しですね。心ここにあらずという様子でしたから」

「ただ、自分らしさって何かしらと考えていたの……」

「自分らしさ?」


 彼は吹き出した。


「こんな場面で自分らしさ。それは、哲学的な問題ですか」

「人はね、いろいろ頭のなかで愚かしい妄想をしているものなの。こんなにお世話になって反論することも申し訳ないけれど」


 彼は、口を閉じたまま再び笑みを浮かべた。


「僕は……、これ以上はないというほど、楽しんでいますから、遠慮は無用です」

「楽しんでいる?」

「コレを見て下さい」


 東雲はデスク上の大型パソコンでムービーソフトを立ち上げた。

 すぐに立食パーティらしい様子があらわれ、多くの人びとが歓談している。


「これは、このホテルで開催されたパーティです。政治家がパーティ券を売るために開く、例のパーティですよ。セキュリティーの観点からビデオ撮影しているんですが、もちろん公には機密です」


 彼はマウスを操作して、左画面に顔認識ソフトを起動して『徳岡大蔵』と入力した。小さな四角い写真が百数枚ほど画面上に現れた。


「これは?」

「例の徳岡議員がホテルを、つまりグループホテル全体で彼が利用した時に撮影された映像です」


 最初は意味を掴めなかった。それから、この事実を理解するに連れて恐怖を感じた。


「ホテルが、こんな風に個人情報を保存しているなんて……」

「現代はどこでもそうですよ。例えばコンビニに入ってもデータとして個人の足跡が残ります」

「ある教授が現代を脳化社会と表現していたけれども。もうその世界を超えて電脳社会ですね。ホテルも道路も監視カメラで全ての情報を管理している。今更それに、チーフが驚いていることの方が驚きです」

「わたしは年を取っているの。あなたよりずっと。だから、こういうことに恐怖を感じるのよ」

「わずか七歳の差ですが」

「今の時代、時間は年ではなく秒で進化している。七年の差は大きいわ。十年前にはスマホなんて持ってない人が多かった」

「興味深い……、自分の立場を忘れて、そういうことに興味が行くのですか。だが、今はそういうことは別にして、この問題を片付けましょう。でないと、来年は刑務暮らしが待っていますよ」


 東雲がボリュームを上げると、画面から中年男の声が聞こえてきた。


『ほら、徳岡の奴、今回のいじめ問題では相当参っているはずだが……』


 東雲がパソコンを操作しながら言った。


「先に編集しておいたものです。というのも、徳岡議員がここ数年に利用したホテルや関連の料亭やレストランも含めてですが、それは多大な量で、精査しないと調べるだけで何ヶ月も掛かってしまう」


 話しながら、彼の長い指は口とは別の生き物のように動いていた。


 背広姿の人間が立食パーティで歓談している様子から、一部の人間にフォーカスしていく。


「徳岡議員が教育関連の族議員だという事実を知ってます? 徳岡は万年野党にもかかわらず文部科学省とのパイプが太いと言われている。不思議と言えば不思議ですが。今、映像内で話をしているのは与党の議員です。これを見て下さい」


 ビデオの中でふたりの男が笑って立ち話している。


『ああ、今度こそ、あの妖怪もね』と言った声が聞こえたとき、別の男がふたりの間に無遠慮に入ってきた。

『ちょっといいですか?』


 斜にかまえて声をかけた男。

 それは、玜介だった。陽菜子は悲鳴をあげそうになって、思わず口を押さえた。


(つづく)

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