妖しく闇に近づく薄墨色〜恋愛心理サスペンス〜
雨 杜和(あめ とわ)
第一部
第1章
幸福と不幸のあいだ
午前8時、オフィスに到着。
デスクに着き、セキュリティ・キーを確認、番号を入力、パソコンを立ち上げる。
この、あまりにも手慣れた一連の動作が
かわり映えのしない一日がはじまるだけなのに。
朝一番のルーティン業務をする時間に、
「チーフ、メール送りました。ニューヨークが、ちと不穏になってますよ」
「そう」
「どうします?」
彼は眠そうな目でほほ笑む。
メールをチェックして、状況を確認、そして、次の指示を与える。
やはり、ふつうの一日がはじまるだけだ。
気がつくと、すでにお昼を過ぎていた。
遅い昼休みを取るために、オフィスを出る。
十一月中旬から、クリスマスイルミネーションで華やぐ丸の内。ブランド店やグルメが揃う、その
いつも、こうした矛盾を感じる。自分でも、それが不思議だと思う。
朝に降り始めた雨は昼には止み、舗道は湿り気を帯び、雲間から出た太陽の光に輝いている。まだ点灯されていないイルミネーションが、捨て猫のように放置されていた。
「待って下さい」
背後から声に振り返ると、
「どうしたの?」
「お昼ですか? いつの間にか消えてらしたので」と聞いた彼の顔は
唇だけでほほ笑み浮かべる彼の顔は美しい。
「ええ」
「最近できた美味しいメキシカンの店を知っています。案内させてください」
「でも」と、
東雲は顔をしかめて、「だから、チーフが好きな簡単に食べられる店ですって」と笑った。
「そう、気が利くのね」と、軽い調子で合わせた。
東雲は横に並ぶと、陽菜子と歩調を合わせた。
背が高く端正な
また、女の子たち。夫も女の子が好きなんだろう……。
陽菜子は唇に微苦笑を浮かべる。
要するに彼は甘やかされた男だ。金と権力と名誉と、すべてを手にする彼は住む世界が違う。しかし、なぜか彼を見ると、遊園地の迷子をイメージしてしまう。迷子になった男の子が途方にくれ、それでも健気に泣きもせず何かを待っている姿を。
「なんですか? その謎めいた笑いは」
唇を無理に曲げて、一瞬だけ笑みを浮かべた。
「チーフを見ていると、幼い頃に面倒をみてくれた乳母を思い出します」
「乳母?」
「ああ、すみません。そういう意味ではなくて。彼女はいつもそんなふうに笑っていたんです」
「どんなふうに?」
軽くほほ笑み、はぐらかしたが彼に興味を感じた。
「その……。いつも一生懸命で、ちょっと突き放しているような、諦めているような」
陽菜子は肩をすくめた。
「一生懸命で諦めているって、随分と矛盾している言葉ね」
彼は育ちの良い笑顔を見せながら頭を掻いた。
「青年よ。国語の勉強が嫌いだった?」
「子ども扱いしないでください。美味しいメキシカンを教えてもらえなくなりますよ」
「それは困ったわ」
彼は意味もなく顔の前で手をふってニッと笑い、お洒落な屋台に案内した。そして、許可も得ずにタコスを二つ注文した。
屋外で食事をするほど若くはないし、その上に寒かった。抗議しようとすると、「トッピングは何にしますか?」と聞かれる。
「いらないわ」
屋台前に椅子とテーブルが数脚用意されていて、他に客はいなかった。
「どうですか?」
「美味しいわね」
寒いわと言うかわりに、そう答えた。十年前なら寒いと言ったにちがいない。
「でしょ」と、思わずため口を聞いた彼は、その言葉を打ち消すように「人気なんですよ。だからお昼時を外さないと食べられないんです」と続けた。
冷たい秋風が枯れ葉を散らしている。
身体が冷えて肩を縮こませると、彼は自分のコートを脱いだ。肩にかかったコートには東雲の体温が残っていた。
「ここ寒かったですね」
「風邪をひくわよ……」
コートを返そうとすると「若いから」と言ってから、そして、失敗したという表情を浮かべる。なんとも、その表情がかわいい。たしかにこれは会社の女の子たちが放っておかないだろう。
「まあ、よしとしましょう。こんど仕事で失敗したときに大目に見てあげる」
「僕は失敗しません」
スマホが鳴った。
夫からのラインだった。『帰りは何時?』とだけ書いてあった。
『遅いわ。十一時過ぎかしら』と、返信した。
それだけだった。
夫のメールには謝罪が含まれていた。そして、いつものように許しが言外に含まれる返信を期待していた。軽くため息を付いてスマホをバッグにしまった。
顔を上げると、彼がいぶかしげな表情で見ていた。
陽菜子は機械的にほほ笑みを浮かべる。
「チーフは」
彼がテーブルに頬杖をついて困惑したような表情を浮かべて言った。
「不幸なんですね。そして、そう言っても怒らないのでしょうね」
不幸? 自分が不幸だと自覚したことはない。
「どうして、怒るの?」
「いつも、そういう意味ありげな
「さあ」と、陽菜子は立ち上がった。「もう時間だわ。仕事が待っている。帰りましょう」
席を立つと、なぜか、彼のほうが傷ついた表情を浮かべた。
その日は帰宅時間が過ぎても会社に残った。
書類がうず高く積まれた窓の隙間から、クリスマスイルミネーションが見えた。部下達は帰したので、課で残っているのは陽菜子だけだった。節電のため周囲の電灯は消えている。
パソコンの電源を落として、オフィスを後にした。
正面玄関は薄暗く、この時間では鍵がおりているだろう。警備員の詰所を通って裏口にまわろうと考えた。
出口まで来ると、煙草の匂いが漂ってきた。
まだ煙草を吸う人がいることに驚いて、たぶん夫だろうと気がついた。
裏口を出ると、やはり、そこに彼がいた。
足元に吸い殻が落ちている。ゴミになるのにと言えば彼がイライラするとわかっていた。
「帰ろう」
夫が顔を背けたまま言った。
彼は決して謝らない。女と一緒のところを見られてもだ。複雑な家庭環境で子ども時代を過ごした夫は、謝罪が最も苦手だった。謝罪ではなく
「ええ」と、答えた。
それから肩をすくめて「もう冬ね」とだけ呟いた。春は来ないかもしれないと漠然と感じた。
人通りの途絶えた舗道にハイヒールの音が響く。
夫との身長差は五センチほどで、ヒールによっては彼より背が高くなる。だから夫と歩く時は低めの靴をはいたが、今日はルブタンで、生憎とヒールが高い。
曇り空で星は見えなかった。
薄暗い路地から本通りに出ても人影はなかった。少し偏頭痛がする……。
駅に向かいながら、ぼんやりしていたので、彼が隣を歩いていないことに、しばらく気付かなかった。
背後を振り返った。
十メートルほど後ろで、夫は奇妙な表情をして立ち止まっていた。驚愕したような不自然な顔つきだった。
それから、ゆっくりと彼の足が折れて、その場で、ひざ立ちになった。
助けを求めるように差し出された手を無言で見つめた。その手を取りたくないと思う。それから、異常に気づいた。
頭に浮かんだ最初の言葉は心臓発作だった。
走りよるのと、彼がその場に倒れるのは、ほぼ同時だ。ということは、背後を振り返ってから走って側に寄るまでの時間は短かったのだ。しかし、とても長い距離に思えた。
彼を助け起こすと胸骨の間に違和感がある。それに触れて、すぐにナイフだと理解した。
「あなた」と、声が掠れた。
慌ててバッグから携帯を取り出そうとして、舗道に中身を撒き散らしていた。
後方から靴音がした。
「どうしたんですか?」
見知らぬ中年の男の声だ。
彼を見つめ「救急車を……。救急車を呼んで」と叫んだ。
夫の血がコートを汚して垂れ、舗道を赤く染めていくのを茫然と眺めた。
「あなた、あなた。大丈夫?」
彼は苦しそうな顔で陽菜子を見ると「……な」と呟いた。
「そうです。男の人が……。ここは、えっと、丸の内のビルの近くで……、なんのビル? 住所は……」
見知らぬ男が携帯で電話をしていた。すぐにサイレンが聞こえたが、それは救急車ではなくパトカーだった。
(つづく)
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