魁偉



 返答ができなかった。背筋を冷たい汗が流れていく。


「事件への深入りを止めなさい。あなたのためもでもある」

「わたしのため?」

「そういうことでもあるが、一番はわがグループの収益に対する問題でもある。そこで頼みに来たのだよ」


 率直で正直な男だ。

 それは学校で習う意味での正直とは異なるが。率直で正直であることは、人との関係でもっとも有効な手段だと、どこかで読んだことがある。


「わたしにですか?」


 彼は週刊誌を手に取るとページを捲った。


「ここにある記事は憶測でしかない。しかし、これは警告なのだよ。つまり、あなたと関係するなという意味だ」

「数日前に徳岡議員について聞きに銀座のクラブに行きました」

「知っている」

「では徳岡先生が夫を殺したのでしょうか? そういう記事に手を伸ばせるような力のある人物とすると、わたしには彼しか思い浮かばないのですが」

「徳岡先生は現実的な計算をできる人間だ。言うなればリアリストだ。だからこそ自分の立場を変えて政界を生き残ってきた。君は間違った方向に向かっている」

「やはり何かをご存知なのですね」

憶測おくそくでしかないな……」

「週刊誌に憶測的な記事を書かれることに、なにを恐れることがあるのでしょうか? まして東雲グループのような巨大企業で。逆に週刊誌を名誉毀損で訴えてもいいと存じますが」

「企業家として社員を守り、経営していく上では仕方のない必要悪がある。叩けば埃も出る。普通なら、そう大事にならない程度のことだが、重箱の隅をつついて嵌めようすれば出来ないことはない。つまり、あの記事が言っていることは、そういうことだ」


 無意識に首を振っていた。


「息子は、あれで頭のいい男でね。これがグループ全体の収益への問題になるということをわかっていた。わかっていながら止めない。そうなると、お嬢さんへの個人的な思い入れが強すぎるからという理由以外にない」

「わたしへの? それはないと存じます」


 性急に返し過ぎたと自覚したが、止められなかった。内心の動揺を悟られたのではないか。


「では、なんの理由かね」

「わたしは、その答えを知りません」

「これはグループ全体の総帥としての意見で、父親としての意見ではないが。息子の行動により、社員が迷惑する事態を避けたい。それに、あれは、そろそろ結婚を考えなくてはならない年齢でもあってな」


 業界誌によると慶一朗の妻は旧伯爵家出身の女性である。つまり、慶輝の結婚相手は、当然、そうした女性だろう。


「わたしとは関係のないことだと存じます」

「そう言う事だ。ところで、あなたのことを少し調べさせてもらった。聡明な女性であると思っている。だから、意を汲んでもらえると思うが、期待してもよろしいかな」


 どう返事をして良いのかわからないが、いずれにしろ、このままホテルに滞在することはできないだろう。


「明日、チェックアウトします」


 彼は再び唇を曲げた。


「感謝しよう」と深く低い声で答え、また顔が歪ませて付け加えた。

「あなたが数日前に自宅のリフォームを始めたことは聞いた。うちのホテルに入っている業者だね。どの位、時間がかかると言っていたかね」

「あと三日ほどです」


 彼は備え付けの電話を取ると、「坂田を呼べ」と言った。しばらくして、相手が出たのか。


「リフォーム業者に今日中に仕上げろと……、そうだ。例のマンションの話だ。よろしい」


 受話器を置いて、彼は正面から真っ直ぐにこちらを見た。部屋の温度が少し冷えたように思えた。


 自宅のリフォーム期間を減らすことで恩を売ったということか。個人的な事に立ち入り過ぎだが言葉を返せなかった。


 陽菜子は常に後になって後悔する自分を持て余すことが多い。

 今もそうだ。何かが違うと思っても反論できない。

 見下されていることに気付かないか、あるいは気付いても適切な返答をすぐに口にできない。そうした場面でいつも言葉に窮して、そして、後悔する。そのために敵が少ないことも事実だが、言えなかった言葉のなんと虚しいことだろうか。


 そうやって積もったおりが心をむしばむ。


「あなたの部屋は明日には入れるようになる。手抜きではないから心配の必要はない。それからもう一つ、ご主人の保険のことはまかせなさい。このわたしにも、その位は手助けできる」


 一億円の保険について言っているのだろう。


「では、これでこの話はついたと思っていいのだね」


 最後にそう言うと、彼は来た時と同様に杖をついて出て行った。カーペットに吸い込まれて音はしないが、なぜかコツコツという音が耳に木霊した。


 しばらく息ができなかった。ベッドに座り込むと、手に滲んだ汗に気付いた。

 あの男の息子が東雲慶輝なのだ。


 育ちが良く紳士的で優雅な息子に比べ、父親は魁偉かいいと呼ばれた祖父に似ている。雑誌の人物像などでは祖父の影に隠れ、家業を継続することに腐心する凡庸ぼんような人物だと書かれていた。

 実際に会ってみると全く違う。普段は牙を隠して凡庸な人物を演じているのかもしれない。


 慶一朗が通り過ぎた後の部屋は、どこか他人行儀になった。この部屋に馴染んでいた。なぜか、それは自然なことのように思えた。

 ため息を付き、荷物をまとめ、といっても、ほとんど何もないので、ホテルの紙袋に買い足した下着などを入れたくらいである。


 フロントに連絡して借りた服のクリーニングを頼み、明日にチェックアウトするので金額を教えて欲しいと伝えた。


 そして、驚くはめになった。


(つづく)

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