月明かりの夜
電話が鳴っていた。受話器を取るかどうか、少しだけ悩む。
「倉方さま、この度は当ホテルを、ご利用いただきましてありがとうございます。支配人の大内でございます。ご宿泊につきましては東雲の申し付けにより処理しておりますので、どうぞお気遣いなく。この度はありがとうございました」
「いえ、それでは困ります。宿泊料金は支払います」
支配人は電話の向こう側で困惑して言い訳をする。
フロントに行くと東雲慶輝が待っていた。彼は陽菜子の顔を見ると幸せそうな表情を浮かべ、それから無邪気に「おはよう」とほほ笑んだ。
いったい何を考えているの? と思わず聞きたくなる。
それと同時に自分の心の動きにも狼狽した。普段なら他人がどう考えようと気にしない。
いつから他人の気持ちに鈍感になったのだろう。
玜介との長い無意味な時間のなかで、充足感もなく、徐々に人びとに無関心になっていた。
『俺にかまうな』という彼の冷酷な声が聞こえるようだ。
自宅にいるときも、外にいるときも、玜介は常にひとりだった。
一年ほど前の、ある遅い夜。
カーテンの開いた窓から月明かりが差し込み、ベッドで彼が起き上がっている黒いシルエットが浮かんでいた。
『起きてるか?』と、彼はかすれた声でつぶやいた。
返事をしなかった。シーツを目深にかぶり眠ったふりをした。
『俺は……。おまえにいっしょにいて欲しいと思う。おまえの幸福を願っているが、おまえが不幸であって欲しいとも思う。なぜだかわかるか? 幸福よりも不幸のほうが、強烈な感情だからだ』
『あなた』
シーツから顔をだして、声をかける。
『起きてたか』
月の青白い光のなかで、玜介が無表情に、こちらを見る。その表情の何かに怯え、愛おしいと思う。自分に興味をもって欲しいと思う。しかし、彼はいつも距離をおく。
「僕が見えてますか?」
東雲がほほ笑んでいる。けっして玜介のしない方法で。彼よりも健康的に、なんの傷もない整った美しい顔で。
「見えてる?」
「ええ、見えているか? と聞いているんです」
玜介と東雲の顔が重なる。
『俺のことを見ているのか?』と、あの夜、彼は聞いた。
『いいえ』と、答えた。
ホテルのフロントロビーはチェックインの時間からズレており、客は少なかった。
「見えてるわ」
「よかった。まるで、上の空でしたから。チェックアウトをすると支配人から聞きました。急にどうしたのですか?」
「部屋のリフォームが終わりそうなので……。そろそろ戻る頃合いだわ」
「それは、あなたの意志ですか?」
「どういう意味?」
彼は近くに、ほんの数センチで触れそうな位置まで来ると、陽菜子の眼を覗き込んで、肩に手をおいた。
「どうも父に裏切られたようですね」
「あなたが裏切ったとも言えない?」
「球が穴を通らないとき、球が大き過ぎるのか、それとも穴が小さ過ぎるのか」
彼は自分に向かうように、奇妙なことを呟いて笑う。
陽菜子は身体をよじって東雲から離れると、フロントに向かった。
「精算をお願いできますか」
「倉方さま……」
「いいよ。大丈夫」と、東雲が遮った。
「なにが?」
むっとした態度になっていた。怒っているわけではなく、自分の感情に向き合うことが怖かったのだ。
彼が腕をつかむ。そして、強引にエレベータまで引っ張られた。フロント左側の奥まった位置にエレベータ空間があり、スタッフや人びとの視線から遮られる場所だ。
「あなたは事態をわかっていない。軽く見すぎている。今、ここを出ることは危険に飛び込むようなものだ」
「では……、あなたは危険を知っているというの?」
「見て欲しいものがあります。ついて来て下さい」
タイミング良く着音がして、エレベータのドアが開いた。
彼はエレベータに乗り込むと、階上ボタンの下にある黒いパネルにカードでタッチした。すると、エレベータ内に存在しない新しい階が光り、そのまま特別階へと上がった。三十七階のそこは、他の場所と同じように部屋が並んでいるが、ドア同士の間隔が長い。
一番奥まで来ると、アイアン製の門戸があり、その先に入り口があった。
部屋のドアを開けると、彼は「どうぞ」と言った。
そこはホテル内ではあるが私室のようである。ホテルにはない生活感があった。通常は鏡やテレビがある場所に棚が設置してあり、多くの書籍が並んでいる。椅子の背に無造作にガウンが掛けられて、読んでいる途中の本や書類が床に散らばっている。
東雲は足で散らかった書籍を隅に蹴り込むと、照れ笑いを浮かべ、「適当に、すわってください」と言った。
全面ガラス窓の前に大きなデスクが設置され、大型のコンピュータがある。彼は慣れた様子でコンピュータの前にすわると、隣の椅子をぽんぽんと手で叩いた。
部屋を眺めながら唖然とした。彼の生活の一端をかいま見る思いがする。陽菜子が想像しているより遥かに、彼は別世界に生きているのだろう。
大金持ちであることと幸福というのは同義語ではない。
仕事柄、多くの財産家の資産を運用する立場だ。財産を持てば持つほど、そのための責任やもめ事が増える。例えば、新入社員と役員の責任は、差というには乱暴な例えだが似ている。ある意味、もっと金が欲しいと思っている立場の方が気楽で幸せなのだ。
東雲は幼い頃から、なに不自由なく育ってきた。だからこその苦闘もあったにちがいない。
「なにを考えているんですか?」
「えっ」
「ほら、上の空の様子で。今はあなたの危険について講釈する時間ですから、どうか、地上に戻って隣にすわってください」
頬が赤くなるのを感じながら、隣に腰を降ろした。
「例のパスワードがわからないデータ。覚えていますか?」
「わかったの?」
「友人が開発したコンピュータウイルスを入れて、パスワードを盗む方法で試してみました。言うのは簡単ですが……。ともかく、開いた」
パソコン内のフォルダを開くと、画面が現れた。その内容は想像していた内容とは全く異なるものであった。
「これは……」
「見ての通りです」
画面には、義父である倉方玜一郎と徳岡大蔵の歴史が玜介らしい几帳面さで表になっていた。二人は、生まれも育った環境も異なる。
玜介は何を調べていたのだろうか。
(つづく)
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