誰もわかってくれない



 目撃者は陽菜子が刺したと言ったのだろうか?


 喉元に酸っぱい液体が這い上がってくる。グレイ色の陰気な場所では、自分が犯人なのだと暗示にかかりそうだった。


「まさか……」

「あなたは限りなく黒に見える。黒という意味がわかりますか?」

「ええ」

「状況を説明しましょう。前にもお話したが監視カメラには、あなたしか映像として残っていない。ご主人のスマホの履歴から、あなたに電話した記録が残っています」


 スマホが見つかったのだろうか?


「他の記録は?」

「当日、ご主人が勤務している出版社に仕事の用件で何本か。これは裏が取れています。それだけでした」

「スマホはどこで見つかったのですか?」

「いえ、発見されたわけではない。電源が切られていて、追跡できなかったんですがね。ただ、サーバとか言うのですか、ネットかな。詳しくないんで、そういうのは。そこを経由する履歴は調べればわかりますから」


 彼の話し方は淡々として、親身な雰囲気もある。取り調べで強引に犯人扱いされ、無実の人間が白状するという話を聞くが、一ノ瀬は違った。まるで世間話のような気楽さである。


「履歴。それだけですか?」

「まあ、ご主人の身辺はいろいろと洗いました。愛人である、例の姫野さんは当夜仕事をしていた。保険会社の古川さんは自宅で家族と一緒。帰宅を近所の人が見ています。その他、ご主人と関係したと思われる人間は皆アリバイがある。ご主人が調べていた参議院議員の徳岡氏は地元の後援者たちと会合を開いていた。ともかく関係者全員のアリバイは調べた。しかし、何より監視カメラにはあなたしかいない」

「わたししか……。でも、わたしは違う」


 自分でも馬鹿げた反論だと思った。小学生でも、もう少しマシな言い訳ができるだろう。

 ここに呼ばれているということは、警察としては犯人と確信しており、後は自白を待つということなのか?


「ナイフが、主人を刺したナイフは持っていませんでした」

「確かに、ビデオには写っていません」

「つかんでもいません。すこし触れただけ」

「しかし、その指紋は消すことができる。柄を拭くだけですから。実は拭いた痕跡が残っているのです」


 言葉を失うしかない。あの夜のことを思い出そうとすると頭痛がしてきた。


「でも、その目撃者の方が、わたしが刺した瞬間を見たと証言したのですか?」

「いいえ。しかし、わかりますか? 倉方さん。あなたは冷静だ。こんな風に被告人扱いされた場合、普通の女性なら興奮するか、怯えるか。しかし、あなたは限りなく冷静だ」

「冷静だから犯人なのでしょうか?」

「そこは判断がわかれるところです」


 一ノ瀬は椅子の背をガタンと音を立てて前後を戻し、背筋をのばしてすわった。そのとき、ドアが開いて男が「ちょっと」と彼を呼んだ。


 彼は男を見て、顔をしかめて出て行った。

 しばらくの間、背後でメモする警官とともに取り残された。狭く陰気な部屋ですわっているのは拷問のようで、彼らが仕組んだ罠かと思えてくる。

 負けないでと自分を励ました。ここで気弱になれば、先には刑務所しか待っていない。


 しかし、いったい誰がどうやって、あの時、玜介を刺したのだろうか。その瞬間をどうして見ていなかったのか。それ以上にどうやって煙のように、あの場所から消えたのか。


 どんなに思い返してもヒントがない。

 陽菜子は見ていない。気配さえも感じていない。

 なぜ? 普段は神経質なほうだ。玜介に怒りを感じていたから? 彼の様子に驚いて動転したから?


 なぜ、それほど動転したのだろうか?

 記憶は曖昧だ。そして、常に感情が記憶を左右する。たぶん、玜介を愛していた。その事実が最も陽菜子を打ちのめしている。だから、あの瞬間、動転して周囲を見る余裕がなかったのは確かだ。


 その結果、自分が犯人扱いされるなどと、誰が想像しようか。


(つづく)

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