無菌水槽の人魚姫
虹が見てみたい、というのが彼女の口癖だった。
天井に投影されている人工の空は、患者が飽きないようにランダムで色々な表情を見せるけど、そこに虹のテーマはなかった。
「管理にリクエスト出したら?」
僕が言うと、彼女はわかってないなあというようにため息をついた。
「虹の根本には宝物が埋まってるんだよ。投影じゃ、根本はないでしょ?」
生まれつき寿命が常人の半分しかないと言われていた僕は、家族の涙の懇願で、この施設に入所した。陸上トラックを高い塀で囲んだような施設の内部は、特殊な酸素化培養液で満たされている。
ウイルスフリーで体に負荷のかからない水中生活を!
華々しいうたい文句は、この生活スタイルを一般に広げていくための実証実験だというから笑えない。僕たちは今日も、オレンジ色の水中を自由に漂いながら、水中サッカーにヤジをとばす。
彼女はどちらかというと夜型で、みんなが壁際の自室へ戻った深夜、月明かりを模した常夜灯のなかで踊るのが好きみたいだった。
裾をしぼったマーメードラインをひらめかせて踊る姿は、昔読んだ小説に出てくる妖精のようで、すこしでも波を立てたら、かき消えてしまいそうな儚さがあった。だから、だれもが彼女の踊りを知っていながら、誰もが気づいていないふりをしていた。
まったくもって、恐れ入る。彼女はとても、妖精なんかじゃなかったというのに。
こんこん、とノックの音で目を覚ます。まだ目も開ききっていない僕の手を取ると、彼女は水を蹴って、一気に天井まで浮かび上がる。
その背中越しに、僕は気づいた。空の一部が割れている。
天井が割られても水はあふれないので、だからこそ、手薄だった。割れ目に手をかけて、僕はひさしぶりに培養液から体を引き上げる。
何年ぶりかの空気はつめたく冷えてて、がちがち歯を鳴らす僕に彼女は乾いた毛布を掛けてくれた。
「こんなことして、どうするの」
僕が震えながら訪ねると、彼女はにっこり笑って穴を指さす。よくよく見ると、穴からちいさなホースが顔をのぞかせていた。片方を培養液、もう片方を外に投げ出してあるホースの先はシャワー状になっていて、施設の屋上から壁に向かって、水滴がぱらぱら止まることなく流れ出ている。
いやいや、まさか。
思わず半笑いした僕に向かって、彼女はにやりと笑う。
さっと朝日が差し込むと、彼女の狙い通り、大きな虹が空にかかった。
悪魔の実験を見事成功させた彼女は、ちいさい子どもみたいに歓声を上げて、水槽の蓋のうえでくるくる回る。足の下では、異常に気付いた住人や職員たちが、右往左往し始める。
虹の根本になにがあるのか、僕は知らない。けど一人で怒られるのは死んでもごめんなので、ひとまず彼女が落ちないように、しっかり手をにぎっておこうと思う。
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