ガラスの天井

 ゴミ袋がいっぱいになって、俺は箒の柄に、落ちないようしっかり結びつける。

 真上を見上げると、ちょうど太陽が中天にのぼる時間だった。そろそろ昼休憩に降りようか。伸ばした指の先はつめたいガラスに触れたようにぴりぴり痛んで、そのはるか上空を、派手な箒にのった魔女がゆったりと横切っていく。


 男が高いところまで飛んではいけないというのは、いわば不文律ってやつだった。

「男性の体は高く飛ぶようにはできていないの」

 ロースクールの先生は、飛行術の最初の授業でそう語った。

「上空は気圧が低いうえに紫外線も強い。あなたたちの体、とくに将来、子どもを作るために必要な部分にとっては、あんまりよくないのよ」

 ハイスクールでつき合った彼女は、まだ低層までしか飛んだことがないといった俺を鼻で笑った。

「男って、飛行感覚が女の十分の一なんでしょ? 高所恐怖症の割合も多いし、玉ヒュンっていうの? 大変だよね」

 彼女は、中層で行われる箒レースの代表選手だった。年齢ごとに開催場所が高くなる箒レースに男が出られるのは、ロースクールまでだった。


 中層の半ばが俺の今の仕事場だ。友人には、すごいなと言われる。

「高所恐怖症のオレには到底無理さ」

 うらやましがられる俺の仕事の内容は、主に上層で働く彼女たちが残していったゴミ拾い。渓谷の底に戻り、パンパンになったゴミ袋を焼却炉に投げ入れる。ぼふ、と魔法痕が燃え上がり、ピンク色のけむりが、空へ高く昇っていく。

「空の一番高いところからはね、星を見下ろせるのよ」

 母さんの声が耳によみがえる。

「星の上を飛ぶの、とっても素敵なんだから」

 上空で暮らすあいつらにとっては、足元の星なんて、ごく当たり前の光景なんだろうか。

「そんなに上層行きたいなら、行けばいいじゃん」

 会社の同期の女子は、グチった俺を呆れて見ていた。

「ガラスの天井なんて、そんなの今どき比喩でしょう? 本当にガラスがあるわけでもないくせに」

 俺はあっけにとられて彼女を見ていた。そもそも、採用の時点で女は上層で、男は中層以下での活躍を求められて採られていることも、それを越えようとすると会社から「バランスが崩れるから」と眉をひそめられることも、彼女はもしかして、知らないのか?

 正攻法で上層に行くには、まず試験を受けて「上層飛行許可証」を取り、それから会社に申請して、上層で働く権利と箒を貸与してもらわなければならない。上層飛行は税金がかかるから、会社も簡単に人数を増やせない。つまり、上層にいる誰かを蹴落とすか、誰かが退職するタイミングを待たなければならない。

 女性が上層を任される理由の一つは、平均寿命の長さもある。俺と同期じゃ、同期の方が退職年齢は十も先だ。雪山を指して「歩かず登れ」と言われるようなものだ。

「這って行けばいいだろ? 障害物はないんだから」


 上層への異動希望が叶わなかった五度目の冬の夜、俺は大きなゴミ袋を背負って焼却炉の前に立っていた。一々焚くのが大変という理由で、昼夜問わず燃え続ける大きな炎の中に、ゴミ袋を押し込む。

 少し待つと、クリーム色の煙が少しずつ空にのぼっていく。粘度の高い泥水のような煙は空の半ばでわだかまり、もやもやした層は次第に分厚くなっていく。異常に気付いた何人かの声が聞こえ始めてようやく、俺は鼻と口を布で覆うと、愛用の箒にまたがって地を蹴った。


 道しるべゴーグルをつけていたから、煙の中でもどこにもぶつからずに、俺はぐんぐん高度を上げる。無許可箒を取り締まるセンサーは、煙がうまくごまかしてくれたらしく、ひとつだって鳴らなかった。

 いや、もしかしたらそんなものはブラフで、実際にはなかったのかもしれない。

 耳の端と指の先が痛いくらい冷たくて、胸が押されているように息が苦しい。急激な気圧の変化に意識が飛びそうになった瞬間、さっと目の前が開けた。


 濃紺の空は、右も左も果てが見えなかった。空にはいつもよりずいぶん大きい月が笑っていて、地面に視線を降ろすと、ばらまいたような星が見えた。

 なんた、ただのかがり火じゃないか。

 俺はつんとする鼻をすすって、無理やり笑った。俺たちの住む渓谷は目をこらさないと分からないほどちっぽけで、その隣の村も、この辺り一の街も、歩いて五日かかる王都も、黄色いかがり火が星のように散らばって、闇に覆われた地表に浮かび上がっていた。

 全然、星じゃねえじゃん。ていうか、俺、こんなちっぽけな場所にいたんだな。

 笑いがこみ上げる。母ちゃん、やっと同じものが見れたよ。でも俺、叶うならこんな裏口じゃなくって、正々堂々と見たかったな。

 がちがち鳴る歯を無視して、下から昇ってくる警察の赤いライトを無視して、俺は最後に空を見上げた。ここまで上ってなお果ての見えない暗い空を、一筋、星が流れて消えた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る