ぬるま湯モラトリアム

 風呂好きが災いした。

 年末進行が進むデスマーチの最中、「一晩でいいから泊めてくれ」と深夜にやってきた同期につい、風呂を貸した。どんなに疲れていても風呂に浸かる派の俺は、その日も湯を張っていた。

 三十分経っても上がってこない同期に嫌な予感がして、俺は激しくノックしてから、おそるおそる風呂場のドアを開ける。入浴剤を入れていた薄緑の湯の中には、だれもいない。


 液状化ウイルスがはやってるのはニュースで知っていたし、結構大変な状況なのも分かっていた。それでも、まさかこんな身近な人間が罹っているなんて、思ってもみなかったのだ。

 俺は慌てて保健所に電話をかけたけど、「とりあえず、水を抜かずに様子を見てください」といわれて終わった。仕方ない。病院はもういっぱいで、この未知の現象の、原因も対処法も、まだなにも分かっていないのだ。

 俺はスマホを洗面所において、あいつの溶けた湯舟を見つめる。

「とりあえず、会社には連絡しとくから」

 念のため報告しておいたけど、はたしてこの状態のあいつに聞こえているのか、そもそも意識があるんだか、分からない。


 ネットで調べた限りだと、どうやら液状化で死ぬヤツは年寄りとか子どもばかりで、健康な大人なら、いずれもとに戻るらしい。

『三日目くらいから、液体の底に氷みたいな結晶ができて、一週間ぐらいで元の体を取り戻す』

 政府が公式に発表している資料から視線を上げて、俺は今日も湯舟をながめる。慣れない在宅勤務は肩がこるけど、こいつが溶けているせいで、もう三日も湯に浸かれていない。


 同期はなかなか戻って来なかった。なんどか結晶らしきものが見えたこともあったけど、次の日にはきれいに溶けてなくなってしまう。

『長引いても絶望しないでください』

 ニュースの中で、どこかの偉いお医者さんが言っている。

『最長で、三か月後に復活した記録も報告されています。諦めず、待っていてあげてください。もしご自身が耐えられなくなりそうなら、すぐにお近くの医療機関にご連絡を』

 テレビに映った案内ダイヤルに電話をかけるも、入院は難しいと断られた。溶けていた液が蒸発間際とか、本当に消える寸前の人が優先らしい。

「そろそろ戻って来いよ」

 俺は腐ることのない湯舟に愚痴る。

「風呂、浸かりてえんだよ」

 波のひとつでも立てばまだ、待ってやろうという気にもなるけど、風も吹かない浴室の水面は、切れたての断面みたいに歪みひとつない。


 半年たっても、あいつの溶けた湯舟は藻のひとつも生えなかった。俺は本当にひさしぶりに追い炊きボタンを押すと、服を脱ぐ。全身をくまなく洗い終える頃、加温が止まった。半年ぶりの風呂はやっぱり気持ちがよくって、あいつが出てこられなかったのもよくわかる。

 俺は深呼吸をすると、薄緑の湯に頭まで浸かった。人肌よりもすこし高めの熱が全身をつつんで、何かがするりと入ってくるのを感じる。

 やがて水の膜をやぶって、俺たちは大きく息を吸った。久しぶりすぎて、のぼせたらしい。くらくらする頭で、「風呂洗いは当番制な」とつぶやく。すぐに勝手に口が動いて、俺の声で「さぼんなよ」とあいつが笑う。

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