バイアス

 彼女の天秤は壊れていて、だから定期的にぼくがメンテナンスを請け負っていた。

 そういう人は結構いて、特別にめずらしいことじゃなかった。感受性の天秤には個性があって、ちょっとのいいことが、たくさんのつらいことに勝るようにできている人もいれば、その逆の人もいる。

 彼女は真逆で、ちょっとの嫌なことが、たくさんの幸福に勝つようにできていた。それは別に欠陥でもなんでもないけど、ゴミ捨ての曜日を間違えただけで家から出られなくなってしまうのは、ちょっとだけ生きにくい。


 左右均等になるよう調節しても、時間が経つと徐々に不幸の方へ傾いてしまうので、三ヶ月に一度、ぼくは彼女を調整した。

 このサイクルを構築するにも時間がかかった。大きく落ち込んでやってきた彼女を哀れに思って、少しだけ幸せに強く傾くように調整してしまうと、彼女はとってもハッピーになってしまい、とんでもないことをやらかすのだ。酔っぱらってもいないのに、歌いながら知らない誰かの手を取ったり、何年も連絡を取っていない友人の家に突然おしかけては、世界のすばらしさについて語ったり。

 ぼくのメンテナンスは記憶を消したりできないので、そういう事実はやがて天秤が戻っていったとき、彼女をひどく苦しめる。だからどんなに落ち込んでいても、ぼくは調整の幅を変えたりしない。世の中には、患者のことなど気にせずに、言われるがまま天秤を調節する施術院もあるらしいけれど、本当に患者のためにならないことを、ぼくはしない。もちろん逆もしかりで、多少浮かれていたって、冷静になるよう手を抜いたりもしない。ぼくはあくまで技術者で、彼女の親でも友達でも、恋人でもなんでもない。


 彼女がぱったり来なくなって半年が過ぎた。

 散々迷って、ぼくは患者情報を元に彼女のもとを訪れた。どう考えても天秤はガタガタになっているだろうし、マックス落ち込んでいて、最悪死にかけていてもおかしくない。

 死体が出てきてしまったらどうしよう、とびくびくしながらインターホンを押そうとしたとき、中から彼女が出てきた。その顔は晴れやかで、頬は健康的なバラ色だった。

 とっさに隠れたぼくに気づかず、彼女はさっそうと歩き出す。

 よかった、よりも、どうして、が強かった。

 ぼくはとっさに後をつける。彼女が向かった先は、怪しげな路地裏でもなく、新興宗教の事務所でもなく、最近はやりのチェーンの施術院だった。

「我慢しないで、いつでもハッピー」

 入り口に立てられた旗の文字が、風に揺らいで歪んでいる。


 これで、ぼくが彼女を救おうとしていたことが分かるだろう? 幸福は何より強い麻薬だ。あの手の院は、それを分かって、あえて強く天秤を傾ける。

 あそこに行けば幸せになれる。

 そう刷り込ませて、患者から金を巻き上げているんだ。

 どっちが正しいかなんて、誰の目にも明らかだろう?

 ぼくは彼女に惚れているわけでも、客を取られて悔しかったわけでもない。ただ、彼女の身を案じただけだ。

 分かったなら、ここから出してくれ。不法侵入して、勝手に施術したのは悪かった。けど、ぼくの行為は本当に、咎められるものなのか?

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