一とゼロのはざまで乾杯

 村はずれの小さな家のドアを開けると、鼻を覆う布越しにでもわかるほど埃っぽい空気が流れ出てきた。もってきた掃除道具を隅におき、まずは窓を開ける。光が差し込んだ室内は、粉雪のようにほこりが降り積もっていて、見ているだけで、今すぐ帰ってワインを空けたくなってきた。頭を振って邪な考えを振り払うと、わたしは一度も使われなかったシーツをはぎ取り、洗濯に向かう。

 わたしのご先祖様は、遠い昔、ここの家主と約束をしたらしい。『戻ってくる場所を守る』なんて口約束を、わたしたちは代々守り続けてきた。石造りのこの家はそうそう傷むことはないけれど、木でできた内装や、防ぎようのない雨漏りなんかはどうしようもない。今拭いている椅子は三代前にぜんぶ作り替えたと聞いたし、先代は晩年にここに盗賊が住み着いてしまって、それはそれは大変な戦いが繰り広げられたという。でも、どれだけ歴史を紐解いても、家主が帰ってきたという記録はない。

 もうきっと、戻って来ないのだろう。

 そう分かっていても、半年に一度の掃除のときにはいつも、少しだけ緊張する。壁に掛けたタペストリーの位置がずれていないだろうか。積み上げた薪が減っていないだろうか。ベッドの上に、人の形のくぼみが残っていたりしないだろうか。そんな期待は一度だって叶ったことはない。分かっている。ここにはもう、誰も帰っては来ないのだ。

 その年の秋の嵐はひどくて、たくさんの家が傷を負った。嵐が去ってすぐに、わたしは倒れた木や崩れた崖を踏み越えながら、あの家へと走った。くずれてしまっていたらどうしよう、という思いと、もういっそ、完膚なきまでに壊れていて欲しいという思いが渦巻く胸をかかえたまま、わたしは走って走って走った。

 家は、中途半端だった。屋根が半分くずれてベッドが潰されていたけれど、煙突は残っていたし、暖炉も炊事場も無事だった。治そうと思えば、治せる。すこんと晴れた青空の下、水しぶきをまとってきらきら光る半壊の家の前で、わたしは立ち尽くした。二又に分かれた道の分岐にいることが、はっきりとわかった。

 どうしてこんな中途半端で止めてしまったのか。嵐に対する理不尽な怒りすら湧いた。わたしに選べというのか。うずたかく積み重なった歴史を、その数十分の一にしか満たないわたしに、壊せというのか。呆然とするわたしに、声を掛ける旅人がいた。昨日の嵐で一文無しになってしまったという男は、廃墟を見て渡りに船とばかりに、修理して使っていいかと聞いてきた。いいよ、と答えたのは、男が勝手に片づけをはじめて、なんとか人が眠れる形が見えてきたころだった。ついでに近くの村で路銀を溜めるまで、ちょっと借りてもいいっすか。いいよ。あ、食卓の位置、使いづらかったんでちょっとずらしました。分かった。薪置き場、湿気が溜まるんで反対にしました。なるほど。うんぬん。かんぬん。

 気づけばあいつは半年も住み着いていて、重厚感のあった室内は、たいそう生活感にあふれた猟師小屋に変わっていた。一応、念のため名前を聞いたけど、歴史書に書かれた家主の名前とは似ても似つかない。この状況は、セーフなんだろうか? 答えは未だに見つからないけど、あいつの作るワインはちょっともったいないくらいにうまいので、まあ、家主を自称する誰かが現れたときに考えることにする。

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