最低最悪な最初の言葉

 その客は、あたしが店で働き始めた初日にやってきた。急ごしらえの、骨組みに布を張っただけの建物のなかで、その人は酒を運んだあたしを呼び止めて、敵国の言葉で何かをしきりに言ってきた。あたしは黙って、そいつをにらんだ。降伏したからって、敵国に売られたからって、いきなり「はいそうですか」でなんでもかんでも許せるはずがない。あたしの母が死んだのも、兄が帰ってこないのも、すべてはこいつが悪いんだ。

 いっそ、目で人が殺せたらいいのに。

 いくらにらんだって、そいつはへらへら笑うばかりで、話すのをやめようとはしない。手帳を取り出して、あたしを指さし、首をかしげる。名前をかけ、ということだろうか。喋れないと思われているらしい。なら、好都合だ。あたしは黙ってペンをとり、「許さない」と書いた。

 突き返した文字に、やっぱりそいつは眉ひとつ動かさず、うれしそうに眺めている。バカなやつ。あたしは冷めた目でそれを見ていた。彼は視線をあげて、わたしを見つめて何かを言った。その言葉が何かまったくさっぱり分からないけど、おおかた「ありがとう」だとか「素敵な名前だ」とかなんだろう。小手先のご機嫌取りなんて吐き気がする。あたしは黙ってその場を去った。舌を丸めるように発音する独特の言葉は、追いかけるように耳から離れない。

 その人は二度とやってこなかった。視察で来るほどの、それなりの立場の人だったとあとから聞いた。だからか、とあたしは軽蔑した。あたしたちは吸収される。名を奪われ、言葉を奪われ、土地を奪われ、塗り替えられる。もう決まった未来を、スムーズに迎えるための下準備。この間のやりとりは、それ以外の何物でもなかったのだ。

 むかむかする胃を抱えながら、あたしは働き続けた。そうしないと生きられないから。いいことなんて何もなかった。嫌なことばかり起きて、それでも歯を食いしばって生きた。一年が経ち、三年が過ぎたころ、あの言葉と出会った。削りたての氷どうしのようにぎすぎすしていた店内が、ゆっくりと溶けて角が取れ、表面のぬれた氷がすべり合うように滑らかにまわるようになっていた矢先だった。

「どういう意味?」

 客の倒したグラスを片付け、乾いた布を渡しながらあたしは訊ねる。その客は頭に指をあてて考えた後、ようやく思い出したように言った。

「そっちの言葉で、〝ごめん〟って意味だよ」

 最後の客が帰り、掃除を終えて寮に戻る夜道には星が出ていた。ごめんなんて、どんな思いで言ったのだろう。もうあの人の顔も思い出せない。あの日の記憶をたぐってみても分からない。母を兄を奪っておいて、あたしから世界を奪っておいて、ごめんだなんてむしが良すぎる。星がにじんで、あたしはくちびるを噛んだ。分かってる。あの人ひとりで戦争を起こしたわけじゃないことくらい、よく分かっている。あの人だって、きっと誰かを失っただろうって分かっている。教えてもらった異国の言葉をつぶやいてみる。舌を丸める独特の言葉は、何回はきだしたってくちびるに馴染まない。

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