残影

 ついに別れてやったのだ。長かった。本当に長かった。好きだ。嫌いだ。出てって。戻ってきて。嘘つき。信じてる。愛してる。さようなら。あいつの残していったハミガキ粉やら下着やら、DMやらシャンプーやらをまとめてゴミ袋に詰めると、たいへんすっきり片付いた。窓を開けてスマホから音楽を流して、本を一冊読み終わるころにはあいつのことなんかすっかり忘れてしまっていた。一人分の料理は火が通るのも早いし、洗濯だってあっという間に終わる。

 日常は変わらなかった。起きて、働いて、食べて寝る。たまに別れたことを肴にして酒を飲んでも、目も喉もぜんぜん痛まない。声が枯れるまで歌った帰り道、わたしはあいつの声を忘れたことに気づく。あいつの好きな色も、あいつの好きな食べ物も、シミを落としたあとのシャツみたいに、じっと目をこらしても浮かんでこない。いいぞいいぞ。わたしは自分を塗り替えるみたいに、新しい場所に足を運び、知らない歌をうたい、飲んだことのない酒をたしなむ。

 その人の本名は知らない。ベロベロに酔った状態で出会ったわたしたちには、必要のないものだった。「背高いね」どちらからともなく絡まった指先をゆらしながら言われる。「なんで?」「だって、手の位置が」ふっつり途絶えた声がきえて、揺らいでいた水面がぴんと静止するような沈黙があって、わたしたちはどちらからともなく手をほどく。「さっき、身長、サバ読んだでしょ」ひとり過去の海に沈もうとしていたその人を見ていたら、わたしもつい、飛び込みたくなってしまった。ふり向いた顔は苦くて、やっぱりちょっとだけ低い。黒くぼやけたあいつの残影は、目の前の肉体の後ろから、ほんの少し、はみ出ている。

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