スタッカートに踊って

「うまいじゃん」響いた声に、終わったと思った。

「なんで、わざと下手に吹いてんの?」

 あの子は、答えなんか知ってるよとでもいうように、意地悪く笑った。

 顧問がきびしいことで有名なこの学校に入った理由は、家から近かった以外にないし、そのなかでもわざわざ吹奏楽部に入った理由は、それ以外にできることが思いつかなかったから、でしかない。小中高と続けてきたトランペットは高校で辞めるって決めてたし、目立って責任とかマジでごめんだから、あたしは真剣に手を抜いた。名顧問と名高い小さなおっさんにどこまでバレているのか不明だけど、今のところ、一度だって手を抜いたって怒られたことはない。けどまさか、こんな校舎裏にあの子がやってくるなんて。

 顧問のお気に入りの、フルートの鬼。個人レベルでコンクールにも出てて、しかも賞を総舐めにしているらしい。疑いようもなくカーストの最上位だ。なんでここに。「わたし、全国に行きたいんだよね」動揺するあたしを黒っぽい目で見つめながら、あの子は言う。「そのためにはさ、ね、素敵なラッパが必要だと思わない?」

 次の週はみんなの視線が痛かった。別人説を囁かれるたびに、ちょっとだけ気持ちよかったけど、「本気でやれないやつは、この先一生、何やったってダメなんだ」って顧問にガチ怒られしたから、そんな気持ちは吹き飛んだ。

「ラッパが入ると、やっぱり華やかになるよねえ」とにこにこ笑うあの子の方が怖かったから、仕方ないんだけど。

「なんで吹部に入ったの?」

 あたしの手抜きに、本気で気づいていなかった顧問にこってり絞られたあと、恨みがましくあたしは訊いた。「あんた、こんなとこで時間潰してる場合じゃないでしょ?」

「やりたいことがあるの」あの子はいつも、たっぷり秘密のつまった袖の下を振るように笑う。

 彼女の「やりたいこと」とやらが分かったのは、ステージの上だった。高校三年、やっと、やっとの思いでたどり着いた全国大会のスポットライトは、ダイヤモンドみたいに鮮烈だった。あの子が大きく息を吸って、ライトを毅然と跳ね返すプラチナの管にくちびるをあてる。

 音は鳴らなかった。

 つめたい静寂は、宇宙船に空いた穴みたいに、観客席から沸くざわめきを吸い込んで大きさを増す。指揮棒をにぎった顧問は、凍り付いたようにうごかない。あの子はパッと構えを解くと、この世のすべてを睨みつけて、ステージの上から去っていく。あたしは立ち上がった。あたしだけじゃない。部員全員がばらばらと立ち上がり、整列も一礼もなく、それぞれに帰っていく。ようやく我に返った顧問が指揮棒で譜面を叩いた音は、誰かが椅子を蹴った音にかき消された。あたしたち部員は、ひとりとして音楽室に戻らなかった。

 三人の生徒をうつ病に追い込んで、意を唱えた先生をことごとく休職へ叩き落した例の顧問は、さすがにどこかへ飛ばされたらしい。校舎をぐるりと回って、世界を整えるようなうつくしいフルートの音色の根本に向かうと、何人もの元部員が、いそいそと各々の楽器を出しているところだった。あたしもケースからラッパを出して、思いっきり息を吸い込む。

「うまいじゃん」何となく始まった練習曲が終わって、あの子がにやっと笑った。

「でしょ」あたしも同じ顔で笑う。

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