連理
がんが見つかったとき安堵した。これでようやく逃げられる。予想通り、あいつは退職を告げてもかすかに顔をしかめるだけで、引き留めたり、まして泣いたりはしなかった。「引き継ぎはちゃんとするから」慌ただしくメイクルームへ消えていくあいつの背中に声を掛ける。あいつは精一杯顔をこっちにひねって、けど何か言う前に、しゃっと白いカーテンを引かれてしまった。よかった。ずいぶん時間がかかったけれど、こうやってあいつが売れて、多くの人に認められて愛されて、本当によかった。もう、思い残すことはない。
ふつーに卒業して、ふつーに就職しようとしていたあいつを、この道に引っ張り込んだのは俺だ。
「失敗したくないから」
そう言ってギターを捨てようとしたあいつに追いすがって、生活は俺が保障するから、と足をつかんだ。それくらい、あいつの歌に惚れていた。この才能を消してはいけないと、ロウソクの火を両手で守るような気持ちで頼み込んだ。
あいつは優しいから、ずいぶんと迷って、それでも結局俺の頼みを聞いてくれた。きっと、恨んでいるだろう。五十を目前にしてアルバイトなしでは生活できず、結婚も、まして子どもすらいない人生を負わせた俺のことを、憎んでいるだろう。
なんとかデビューにこぎつけても、なかなかあいつは売れなかった。親戚の集まりみたいな温かくて小さなファンクラブはできたけど、ワンマンライブはおろか、雑誌のインタビューすら依頼が来ない。
俺は焦った。あいつの作る歌は年々うつくしさを増していくというのに、どうして売れないんだろう。
原因は俺にあった。俺にマネージャーは向いていなかった。気の利いたことは言えないし、スケジュール管理も苦手でしょっちゅうブッキング事故を起こした。他の人に変わってもらおうと何度も思ったけど、そのたびにあいつの静かな視線に足を止めた。「お前が始めたことだろう」とあいつの目は言っていた。俺は血を吐きながら、駆けずり回った。駆けずり回ることを、辞められなかった。
あいつをたぶらかして十五年、デビューしてから十年目、ようやくあいつは売れた。SNSの口コミは、これまでの俺のあらゆる営業や接待より強力に、あいつの歌をみんなに届けた。別にいい。あいつが正当に評価されたなら、それでいい。
「悪かった」
見舞いに来てくれたあいつに、俺はようやく謝ることができた。
「ふつーの人生なら、全然いらない苦しさばっかり味わせてしまった」
あいつはじっと俺を見つめて、口を開いた。
「おれを正しい道に引き戻してくれてありがとう」
何を言われたのか分からなかった。あいつは視線をそらさない。
「フツウに逃げようとしてたおれを、お前が引き留めてくれた。だから、おれは後悔しなくて済んだ」
退院祝いは何がいい? と聞かれて、答えるまでに時間がかかった。ようやく止まった涙をふいて、俺は顔を上げる。
「退職金で、家を買おうと思ってんだ」いつ倒れてもいいように、病院の近くに小さな家を買おうと思っていた。
「たまにでいいから、歌いに来て。八十になっても、百になっても、ずっと」
あいつは歯を見せて笑った。目じりのシワは増えたけど、「内定、蹴るよ」と言ったときと同じ笑みだった。
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