早苗

 群馬の田舎に置いてきた人がいる、とその男は言った。

 下町の飲み屋のカウンターで、目の前には氷だけになったグラスが、しとどに汗をかいていた。妻を持ち、子を成し、仕事を終えた今になってようやく、あらためて思い出すのだという。

「生きてれば、僕と同じ還暦だ。どんな人生を歩んだろう、とか、今何をしているんだとかね、想像するんですよ」

 山と畑に置かれた宝石のように、場違いに美しい人だったと男は語った。

「とはいっても、東京に出たら、埋もれてしまうかもしれないですけどね。清流で拾ったきれいな石が、持って帰ったらただの砂利だったなんてこと、よくある話でしょう」


 久しぶりの飲みの席だと最初に言っていた通り、男はよく飲み、よく酔った。煮物のこんにゃくを箸でつまんでは、「群馬産でしょう」と言って、当たると子どものように喜んだ。

 歳をとると、故郷が懐かしくなるというのは本当だ、と男はしきりにつぶやいた。

「乾燥した稲わらはね、こう、のどがカスカスするような、イガイガするような、それでいてどこか甘い匂いがするんですよ」濃く青く高い秋空のしたで、実った稲穂が波打つさまは、それはうつくしいのだと。

「その人の目がね、また、不思議な色をしてたんです。普段はみんなと同じ焦げ茶色なのに、稲穂の傍ではうすくなって、まるでべっこう飴みたいに透き通ってねえ」


 男は口を閉ざし、それからうつむいていた顔をあげた。カウンターを飛び越えて、よく干した稲わらのような熟した顔が、あなたを見る。

「ああ、変わらないねえ」

 なるほど。どうやら今の自分は、男の「置いてきた人」らしい。

「本当に、懐かしい。ビニールで区切られていないこの店も、若々しいあなたも、鮮明に思い出せる過去も、何もかも」

 男は大きく笑い、次の瞬間、煙のように消えた。閉じた本を手に、あなたは目を開ける。窓の外でゆれる稲穂は、まだ瑞々しく青い。

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