【2分小説】つまみ小説3

湾野

雷の子

 娘は雷の日に生まれた。だから、7歳の誕生日に眠りについてしまったあとも、雷の鳴る日だけは目を覚ます。わたしは何日も前から天気予報を祈るように見つめては、少しでも雷の予報がでると、シフトを交換してもらって娘の覚醒に備える。年に数回しか言えない「おはよう」を言える、貴重な機会をのがしたくはない。

 娘は雷が好きだ。だから、雷鳴で起きるのだと思う。仕事を早退して子ども部屋に駆け込んだわたしを、娘はちらりとも見なかった。ただじっと、空を走る白い閃光を見つめている。

「おはよう」

 娘から、返事が返ってきたことはない。

 

 眠り姫となった娘をたくさんのお医者さんに診てもらったけれど、結局何もわからなかった。部屋の電気をつけると怒るので、薄暗い部屋で、ときおり鮮烈にひかる雷光に照らされる娘の白い頬を見つめる。雷を見つめる娘の顔はいつもひたむきで、真剣で、秒に満たない速度で過ぎ去る流れ星を捉えようとするカメラマンのように、ぴんと張り詰めている。だから、どんなに話しかけても返事は一切帰ってこない。調子はどう? お腹は空いていない? 何か欲しいものはある? ケーキ買ってきたよ。どんな言葉も、雷のしもべとなった彼女には届かない。今日もまた、そうだった。雷鳴が遠くなり、雲の影からよく磨かれた銀の月が顔をだしてようやく、娘はわたしに気づいたようだった。「お母さん、ありがとう」娘はお決まりの言葉を告げて、それからちょっとだけ笑って、また眠った。


 職場の人が保護した子猫は、大人にも、眠ってばかりの子どもにも、雷にも驚かない、たいそう肝の据わった猫だった。わたしのいないときに起きた娘が、さみしい思いなどしていないことなど重々承知だったけど、何一つ親らしいことをしてやれないという、つぐないの想いもあった。猫は娘の布団がお気に入りで、姉妹のように寄り添って眠る姿に、ほんの少しだけ癒された。五年後にもう一匹引き取って、最初の猫が空にのぼった次の年、また新しい猫を飼った。わたしは還暦を迎え、娘は三十を超えた。


 治らない病がわたしに見つかった夜、娘はやっぱり雷を見ていた。じっと見つめる顔は、親から見ても老けている。「きれい?」少しずつ遠くなる雷鳴を追いかけるように耳をそばだてる娘に、わたしは包丁を背中に隠したまま、それだけを聞いた。娘は窓から顔をそらし、わたしを見た。「すごく」生も死もない娘の瞳は、雷の消えた濁った夜に、浮かぶように光っていた。その目だけは、7歳のまま透き通っている。


 行政も、ボランティアも、NPOも、メディアもクラウドファンディングも何もかも、使えるものは何でも使った。わたしはどうにか、彼女が死ぬまで雷を楽しめるだけの環境を整えた。これでもう、思い残すことはない。奇特な大金持ちにプレゼントしていただいた特別病棟で、雷に夢中な娘の横顔を目に焼き付けて、彼女の膝から動かない猫の頭をひと撫でしてから、わたしはそっと自分の病室に戻る。もう、雷鳴もよく聞こえない。彼女は今、幸せだろうか。うっすら開けた視界に、稲妻のように白い頬がみえる。

「お母さん、おやすみ」

 やさしい声が、雷鳴のように深く深く、うすくなった胸に響く。

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