フィーバータイム

 人生にはフィーバータイムがある。どんな人間にもある。それが一日なのか、十年なのかは分からないけれど、とにかく仕事も恋愛も趣味も家庭も、何もかもがうまくいく期間というものが、必ず設定されているのだ。

 そして、その後には、身も凍るような不幸が来る。だから、だれもがその時間を、楽しみにしながら怯えている。その目もくらむような幸福と、その後に待ち受ける灰色の絶望を、どうか来ないでと祈りながら、待っている。


 だからこそ、私は妻の死を信じられなかった。

 妻は、フィーバータイムに入ったばかりだった。わたしの時代が来たのよ、と仁王立ちして胸を張った妻が、その期間が終わる前に自ら命を絶つなんて、そんなこと、あり得なかった。

 だから、違和感に気づけたのだ。喪主として最前列に座り、半ば夢を見ているかのようにぼうぜんと、焼香をあげる参拝客に機械的に頭を下げている最中、ひとりだけぎらぎらした目で妻の遺影を睨んでいる人がいた。


 印象に残っていたから、妻の先輩と名乗るその人物が、通夜のあと、私の前に立ちふさがったときは驚いた。

「少しは後悔してるんですか」

 いきなりそう切り出した自称先輩の言葉の意味が分からなくて、私は答えに窮した。

「あの子は、いつもあなたのことで悩んでいた。絶好調の彼女すら追い詰めたのは、夫であるあなたでしょう」

 そんな事実はなかった。むしろ、妻は家庭で仕事の愚痴ばかり話していた。私が応戦すると、先輩は怯んだようだった。

「そんなわけない」

「いやそっちこそ」

 かける水が無くなって、私たちは肩をゆらして互いににらみつけながら沈黙した。これはどういうことなのだろう。私はもういない妻に向かって文句を言う。想像の中の妻はにっこり笑ったまま答えない。


 警察の捜査も空しく、結局とくに事件性は見つからず、妻の動機は不明のまま、ただ時だけが過ぎていった。

 その間に、私にも例の期間が訪れた。仕事はすべて順調で、宝くじが当たり、少女漫画のような出会いがあり、まさに世の絶頂だった。

 にもかかわらず、私は変わらなかった。社長賞は引き出しにしまい、当たった金は全額寄付し、新たな出会いは結局進展しなかった。そのすべての瞬間に妻の顔がちらついて、要は彼女のことをまだ、受け止めきれていないのだった。

 影の差したフィーバータイムは大してすばらしいものでもなく、その分、終わったあとの反動もなく、絶頂期が終わった人間の八割が世界を退場する世の中で、私は淡々と生き残った。


 感慨もなく毎日を過ごしていたある日、例の先輩から連絡があった。

「彼女のおかげで、職場環境はだいぶ良くなりました」

 過ぎた時間の倍くらい老け込んだように見える先輩には、それでもすり減った手すりのように、まろやかな穏やかささえ滲んでいた。

「もしかして彼女は、自分たちのためにあんなことしたんじゃないでしょうか」

 私の話を聞いて、確信を深めたように先輩はつぶやく。

「自分たちが生き残れるようにと思って、少しだけ早く、退場したんじゃないでしょうか」

 私は黙って妻の遺影を眺めた。

「違うと思いますよ」

 黙っとけばいいのに、私はつい口にした。

「忘れられたくなかっただけじゃないかな。あの人は、強いくせにさみしがりだったから」

 そしてしたたかだったから。きっとこうして、私たちが悶々としていることすら、彼女の手の平の上なのだろう。あっけにとられる先輩を無視して、わたしはにっこり笑う妻の遺影に手を伸ばし、してやったり顔をそっと伏せる。

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