予測変換の真心

 フルフェイスマスクの予測変換には、政府の発行する公用語辞書に載っている言葉しか登録されていない。

 もろもろの理由で、家族以外の人と対面するときは着用が義務づけられた卵のような形のマスクは、顔の全面がモニターになっていて、思考とリンクした文字や映像を表示できる。くしゃみや咳も気にならないし、化粧も不要だとウケはいい。


 決まった単語のみでの会話は楽である。うっかり失言する可能性も減るし、相手を傷つけることだってほとんどない。「バカ」「アホ」「頭おかしい」なんて言葉は一切排除され、使えば年齢にかかわらず即逮捕。これほど分かりやすいシステムもない。私がそう話すと、弟は呆れた。

「兄ちゃんって、ぜってえ前の世界じゃモテなかったよね」


 そんな暴言を吐かれた私にも、恋人ができた。あざやかなブルーのワンピースがよく似合う、物静かな女性だった。

 美術館で出会った私たちのデートは、主に美術館とその周辺の公園だった。木陰のベンチに座り、こもれびがゆれる彼女のヘルメットに、しずかに浮かぶ文字を読む時間が好きだった。

 彼女は制限された単語で、今日観た作品がいかに素晴らしかったか表現するのがうまかった。

「あの作家の色遣いは、まるで寒椿のようですね」

「明暗のトーンが四川料理みたいに強烈で」

「彼女の表情は、一見すると幸せそうですけど、方向を変えて読むと別の文字が出てくる文章みたいに、仕掛けがあって」

 私は言葉少なに相づちを表示させ、そっと彼女の手をにぎった。お付き合いをはじめて半年たっても、彼女の素顔はまだ知らなかった。私たちはお互いに奥手でこういった経験が乏しく、どうやって素顔をさらし合う関係に踏みこめばいいのか分からなかった。

 もどかしい気持ちももちろんあったけれど、私はそこまで困っていなかった。今の関係に十分満足していたし、私たちなりのペースで進めばいいと思っていた。当然、彼女もそう思っているはずだと、そう思い込んでいた。


 だから、突然別れを切り出されたときは動揺した。

「ごめんなさい」と表示されたまま動かない彼女に対して、返答の予測変換が立ち上がる。

『わかりました』

『なぜですか』

『別れたくないです』

 どれを選んでも気持ちの一片しか表せなくてもどかしかったけれど、私はひとまず「なぜですか」を選ぶ。彼女の返答にもまた、時間がかかった。

「本当は、お疲れ様です んだ なぜですか のみ ひとまず と共に があって すると きょう なの」

 突然、意味の分からない言葉が羅列されて戸惑う。クエスチョンマークを出しても、彼女の答えは変わらない。私は十個の単語をじっと眺めて、眺めて、ようやく彼女の伝えたかったことを理解した。


 レズビアンを辞書に載せなかったことであれだけ叩かれているのにも関わらず、政府はまだ公用辞書に一部の単語を登録をしていない。それらを表すような言葉の組み合わせも、できないように設定されている。私は静かに手をにぎり、予測変換の一番上に表示された文字を選択しようとして、やめる。

「わかりま」

 フルフェイスマスクをはずすと、ぶわりとつめたい風が顔を打った。

 それから、自分が何を口走ったか、正直よく覚えていない。脱ぎ捨てたマスクに搭載された、自動起動のトークレコーダーには、こっそり読んでいた禁書でしか知らない口汚い言葉ばかりが残っていた。

 確かに自分の声でつむがれるナイフのような言葉たちに、私は震えあがりながら、意味がないと知りつつも、メモリを三回フォーマットする。こんな言葉を他人に向けてしまったなんて、信じられない。けれど、科学技術は便利に清潔に世界をやさしく覆うばかりでなく、ときに見たくもない真実を白日の下に引きずり出す。だから、これは間違いなく、はじめての失恋に激高した自分の醜い一面であるのだろうし、そのとき、確かにこの言葉を聞いたはずの彼女が、仮面の下でほほえんだ気がするのは、まったくもって、勘違いにちがいないのだ。

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