理論上のこい
「それは恋だな」
シーケンサーから目を離さずにそいつは言った。
「確かか?」
「条件のそろわない環境での動悸、体温の上昇、発汗、散漫な注意力に、制御の効かない関心。エビデンスは充分だろ」
なるほど。僕は深く納得した。細胞内の遺伝子ばかり追いかけてきたせいで、こういった情緒にはとんと疎いが、同じ研究室の唯一の彼女持ちがそういうなら、そうなのだろう。
「実の姉にも、恋というのは成立するんだな」
ぴ、と音が鳴って、あいつがようやく振り返る。
「そういう重要な前提条件は、最初に言え」
8つ離れた姉は、ぼくが10のときに家を出た。ところが、12年たった昨年、ふらりと実家に帰ってきた。
よく冷えた夏の風のようだった姉は、桜終わりの路肩にわだかまるくすんだ花びらのようなにおいがして、たぶんそれがいけなかった。
はじめは、ただの気まずさからくるものだと思った。なにせ、一緒に暮らしていた時間より、離れていた時間の方が長いのだ。血はつながっていても、他人に近いと言っていい。だから、ほとんど裸のような恰好で寝室から出てきた姉を直視できないのだって、普通のことだ。しばらくすれば、慣れるだろう。
そう思って半年が経つ。動悸は激しくなるばかりだ。生活に支障がでて仕方ない。
それで、こいつに相談した。研究室一のチャラ男だが、案外口が固いうえに、根っこはなかなか情に熱い。
「事情は分かった」
洗いざらい話した後に、あいつはようやくぼくから離れた。
「一週間、時間をくれ」
翌週、ゼミ終わりにぼくはまたあいつに捕まった。
「結論から言う。近親者間の恋愛感情は存在する」
意外と真面目なこいつは、ちゃんと根拠をあたってくれたらしい。
「創作物に多い事例だが、現実にも存在はしているようだ。もちろん、人の恋愛なんて非常にプライベートな部分だから、統計的な保証はできないが、お前のその感情は、理論上はシックスナインの確率で恋に違いないと思う。だから」
あいつはそこで言葉を切った。
「それをどうするかは、お前自身だ」
願った結果と正反対のデータを発表するときのような目で、あいつはぼくを見ていた。ぼくたちは遺伝子の研究をしていて、そして人よりちょっとだけ、遺伝子の堅物さにも詳しかった。
「え、先生、恋したことないんですか?」
ゼミ生が大げさに驚く。いくら飲みの席だって、大声でそんなことを言われたら恥ずかしい。
「ちゃんと聞きなさい。恋人がいたことがないと言ったんだ。」
「えーそれじゃあ、好きな人はいたんだ」
もう一人の学生が、真っ赤になった顔でにやにや笑う。まったく、いつの時代も学生は怖いもの知らずなやつばかりだ。かつての自分を思い返しながら、ぼくはため息を日本酒で流し込む。
「どんな人だったんですか?」
「いう必要はないな」
「絶対美人だって、教授、面食いそうだし」
学生たちは、ぼくを置いて盛り上がっていく。だから、理論上の恋が今もまだぼくの胸にあることは、秘密にしておいていいだろう。
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