通勤電車交換文庫

 眠気に満ちた電車内で、広げていた文庫本から視線を上げる。対角線の席で彼女は今日も、しずかに座って本を読んでいる。


 毎日通勤していれば、自然と同じ車両の面々も覚えていく。名前も知らない同胞たちの一人が、彼女だった。

 彼女はいつも本を読んでいた。よほど本が好きなのか、長い髪を荒っぽく払いのけながら、彼女はいつも背中を丸めて本の世界へ没入している。電車が止まり、ドアが開いてようやく顔を上げる彼女は、水色のしおりを手早くはさんで、音がしそうなほど勢いよく立ち上がるのが常だった。

 その手にある本を見て、やっぱりと思う。先週まで、ぼくが借りていた本だ。


 最寄り駅の改札の片隅には、駅前文庫があった。カバーの外された裸の本たちは、どれも擦り切れて古いけれど、駅員の趣味がいいのか、どれをとってもおもしろい。

 ぼくがそこから借りていった本を、彼女が必ず次に手に取ることに気づいたのは、効き過ぎた冷房がうなじの毛を逆立てる夏のことだった。

 はじめは、偶然だと思った。それ、おもしろいよね。きっと同じくらいの歳の彼女に、思わず声を掛けたくなるのを、ぼくはぐっとこらえた。

 二度目は、純粋に驚いた。偶然にしては、できすぎていた。

 三度目は、困った。これは、何らかのアピールなのだろうか。でも彼女は、あくびの満ちた電車内でひとり、ぴんと背筋を伸ばして本を読むばかりで、一度だって彼女を盗み見るぼくと目が合うことはなかった。

 好奇心とリスクを天秤にかけて、ぼくはリスクを取った。

「ぼくの読んだ本を借りてるんですか?」なんて、もし違ったら気持ち悪すぎるし、それにしずかに小説を読む彼女があの席に座らなくなってしまったら、きっと悲しいと思うから。


 臆病なぼくと彼女との、一方的な交換日記は、冷房が止まって暖房がつくようになっても続いた。

 年末、異動の辞令が出た。引っ越しが必要な異動だった。

 新しい物件から職場までは、自転車で通える距離だった。四月になれば、彼女に出会うことは二度とないだろう。一度ふりきったはずの迷いが、再び首をもたげる。毎朝、彼女の横顔を見ながら、目が合うことを願ってしまう。


 結局、声を掛けることはなかった。必要がなくなったのだ。

 異動はうやむやになった。その前に、出勤しないよう連絡が来た。初めての在宅ワークは、机周りの本を片付けることから始まった。うっかり紙面を広げて片付けの手を止めてしまわないよう気をつけながら、彼女はいつも通り通勤しているのだろうかと、ふと思った。


 自粛が明けて最初の通勤日、ぼくは三十分も早く家を出て、駅前文庫の前で本を眺めた。ホームに人は少なくて、文庫も最後に見たときから、あんまり入れ替わってなさそうだった。

 ふと、紙の大地にぽつんと、ちいさな突起があることに気づく。何かが挟まっている文庫を引きぬくと、水色のしおりが挟まっていた。

「これの本、わたしも好きでした」

 きれいな筆跡で書かれたしおりを、ぼくはしばらく見つめた。

「ぼくも、この本が一番好きです」

 いつか、再び出会えた時にそう言えるよう、ぼくは今日も水色のしおりを本に挟む。

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