第3話 再生の場所

 翌日、通勤や通学のために次々と玄関から出て行く人達の背中を目で追いながら、マンションの一階のロビーで、博也は腕時計を眺めながらずっと立ち尽くしていた。

 その時、玄関からスーツ姿の若い男性が、アタッシュケースを片手に入り込んできた。


「西岡さんですね?」

「そうです、六〇五号室の西岡です。忙しいのに呼びつけてごめんなさい」

「このマンションの管理を任されている角屋カドヤ不動産メンテナンス部の堀井太蔵ほりいたいぞうといいます」


 男性は、ポケットから名刺入れを取り出すと、名刺を一枚抜き取り、にこやかな表情で博也に手渡した。

 博也は名刺に目を通すと、ポケットに仕舞い込みながら口を開いた。


「今日お話することはですね……率直に言いますと、この玄関にピアノを置かせて欲しいということなんですよ」

「え? このマンションにですか? 西岡さんのお部屋ではなくて?」

「そうです、僕の部屋以外の場所です」

「どのあたりに置くつもりですか?」

「このロビーが一番いいと思います。郵便受けや荷物受けがあり、自販機もあって、ソファーも置いてある。日中はお年寄りがここで集まって会話しているのも目にしますし、このマンションで数少ない憩いの場になっていると思います。ここにピアノを置けば、住民の皆さんに気軽に触ってもらえると思います」

「ということは、最近よくテレビで見かける『駅ピアノ』みたいなものですか?」

「そうです。あの『駅ピアノ』のマンション版と言った所ですかね」


 博也はスマートフォンを操作し、処分場から引き取り自ら修理したピアノの写真を、堀井の目の前にかざした。

 堀井はスマートフォンを手にすると、しばらくの間じっくりと見入っていた。


「ほう、結構大きいですよね、このピアノ」

「そうですね。でもこのロビーを大きく占有するほどではありません。邪魔にならないよう、片隅に置いてもらえればそれで充分です」

「で、もしこのピアノのために、誰かがぶつかって怪我した時は、責任はどうしますか?」

「え、そ、それは……」

「私ら管理側の懸念しているのは、不慮の事故と、ピアノを盗難された時の対応をどうするか、の二つですかね。我々もお客さん同士のトラブルに巻き込まれるのが一番困るんですよね」


 堀井は、眉をひそめながら、博也の方を見て冷静な口調で言い放った。

 しかし、博也はするどい目つきで堀井を睨むと、


「そんなのはピアノを設置する僕が責任を負えば済むことじゃないですか? 何か起きても管理人である皆さんには迷惑はかけませんから! この僕が、このマンションの雰囲気を変えたいという強い思いがあるから、是非ともやってみたいんです」

「ほう、あなたお一人で?」

「そうです。これは僕のわがままと願望からお願いすることだから。管理人さんはたまにしかこのマンションには来ないからわからないでしょうけど、このマンションの住民の皆さんは挨拶ひとつすらできない人が多い。おまけに、自分のことしか考えていない、心に余裕がない人が多いと思います。僕はそんな状況に少しずつでもメスを入れたい。ピアノに携わっている人間としては、そのきっかけがピアノになれば、と思ってるんです」


 毅然とした態度で言葉を言い放つ博也に対し、堀井はしばらく腕組みをして考え込むと、眉をひそめ、舌打ちをしてからようやく言葉を発した。


「わかりました。あなたがそこまで言うなら。我々は一応、ここにピアノを置くことには許可をしますが、色々条件は付けさせてもらいます。その条件を守れなければ、即効撤去をお願いしますので」


 堀井の言葉を聞き、博也は慌てて立ち上がると、叫ぶかのように「ありがとうございます!」と大声で感謝の意を伝え、深々と頭を下げた。


 後日、堀井から博也宛てにピアノの設置許可書が送られてきた。

 管理者から求められた条件は、「ピアノにより住民から騒音を訴えられた場合」「ピアノが原因でケガが発生した時」「半数以上の住民から撤去依頼があった場合」には即時の撤去を求めること、また、ピアノの修理や撤去については設置する博也が全て責任を持って対応すること、何があっても不動産会社は一切タッチしないとのことであった。

 読めば読むほど憂鬱になってくるが、本当は置くことが出来ないものを置かせてもらったんだから、ある程度の条件はやむを得ないと思い、言いたいことがあってもグッと胸の奥に仕舞い込んでいた。

 博也は早速、直したばかりのピアノを軽トラックでマンションへと持ち込んだ。

 ピアノをロビーの唯一の空き場所である右奥のスペースに設置すると、ラミネートで覆われたポスターを壁に貼り付けた。

 このピアノが、マンションの住民達の心をを少しでも開いてくれることを祈りながら。


『このマンションにお住まいのみなさんへ どうぞご自由に弾いて下さい。まだ新しく生まれ変わったばかりのピアノなので、壊さないようにご使用くださいね。皆さんの言葉、思いをこのピアノで表現し、他の住民の皆さんと共有してみてはいかがでしょうか?』


ポスターを貼り終えると、博也はピアノの鍵盤に指を置き、思いつくままに何曲か楽曲を演奏してみた。穏やかな曲調のメロディーがロビー中に響き渡ると、博也は納得したかのように頷き、ピアノに語り掛けた。


「ここがお前の新しい居場所だよ。今のお前ならきっとこのマンションの人達の心を開かせることができる。分かってもらえず大変な思いもするかもしれないけれど、みんなに愛される存在になれると俺は信じてるよ」


すると、博也の耳に『ありがとう、ここで頑張ってみるよ』と、か細い声がどこからともなく聞こえてきた。博也は振り返り、辺りを見回したが、ロビーの中に人影は確認できなかった。


「今、何か聞こえたけど……気のせいかな?」

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