第2章 心を繋ぐ曲 

第4話 親子のカノン

 夜も更けた頃、博也は仕事場である作業所から自宅であるマンションへと戻ってきた。ロビーに設置したばかりのピアノは、住民にはまだ知られていないのか、知っていても無視されているのか、誰かが弾いたような形跡を確認できなかった。


「ふう、まだまだ時間が必要なのかな」


 博也はため息をついたが、いつの日か多くの住民がこのピアノに触れてくれることを信じて、到着したエレベーターに乗り込もうとした。

 その時、博也の目の前で開いたエレベーターのドアから、小学校高学年か中学生位と思しき少女が現れた。

 少女は博也の脇をすり抜けるかのように走り去り、あっという間に玄関から外へと飛び出していった。


「な、何だよあの子は……?」


 博也は背中越しに少女の姿を目で追いかけたが、その姿はどこにも見当たらなかった。博也はしばらくの間あっけにとられたが、気を取り戻すと、上階へと行くエレベーターに乗った。

 自室のある階に到着すると、博也と入れ替わるかのように、中年の女性が心配そうな表情を浮かべながらエレベーターに搭乗した。

 博也は女性の声や表情に覚えがあった。女性は、先日博也が引っ越しの挨拶に行った時に「もっと早い時間に挨拶に来い」と言って部屋に入れずに追い返した母親であった。


「まりえ、どこに行っちゃったの……?」


 思わず耳に入った女性の呟き声を聞き、博也は先ほどすれ違った少女の顔や姿をもう一度思いめぐらせた。あの少女は、博也が引っ越しの挨拶に行った時にドアの隙間からわずかに顔を見せてくれた子に違いない。何かにおびえていたように見えたあの顔は、博也という見知らぬ男性への恐怖心からなのだろうか?それとも……。


 博也は一度自宅に戻って鞄とコートを置くと、再び廊下に出て、ちょうど自分の住むフロアに近づいてきたエレベーターに飛び乗った。

 一階に到着し、エレベーターから降りてロビーを見た時、そこにはソファに腰かけたまま両手で頭を抱えてうつむく母親の姿があった。


「どうかしました?」

「まりえが、まりえが……家から出たまま、行方が分からなくて」


 母親は少し顔を上げて博也を見つめると、目を大きく見開き口元を押さえた。


「あなたは、あの時の?」

「そうです、こないだ引っ越しの挨拶に伺った西岡です」


 すると母親は横を向き、博也から視線を逸らそうとした。


「あなたには関係ないことよ。心配しなくて大丈夫ですから」


 しかし博也は、母親の憔悴しきった様子を放っておくことができなかった。


「僕でよければ、教えて下さい。まりえさんって、こないだ僕が挨拶に行った時にドアを開けてくれた女の子ですよね?」

「そうだけど、あなたは余計な心配しないで良いですよ。私の家庭の問題に他人は首を突っ込まないでくれませんか? 私と娘の問題なんだから!」


 母親は金切り声を上げると、博也から視線を逸らし、固く心を閉ざしていた。


「首は突っ込みませんよ。でも、力になれることがあるかもしれないし、良かったら聞かせて頂けませんか?」


 母親は訝し気な顔で博也を睨んだが、咳ばらいをすると、胸元を押さえ、声を絞り出すように話し始めた。


「あの子、最近私の言うことを全然聞いてくれなくてね。私は小中学校時代ろくに勉強もせず、高校に入ってから苦労して勉強してやっと大学に入った経験があるからさ。あの子にも今のうちに必死に勉強して、進学に実績のある私立の中高一貫校に行きなさいって言ってるのよ。でもね、あの子は小学校の友達と遊んでる方が楽しいし、友達と同じ公立中学に行きたいから、見ず知らずの子が集まる私立中学になんか行きたくないって」


 母親が話し終わるのを見計らうと、博也は突然立ち上がり、ロビーの片隅に置いたピアノの前に腰かけた。


「何なのよ突然?というか、何でこんな所にピアノが?」


 博也は母親の問いかけには答えず、鍵盤の上でひたすら指を動かし続けた。

 一つ一つの優しい音色が繋がり、やがて川の流れのようにゆるやかに、そして豊かな表情を持ちながら聞き手に伝わってきた。


「このピアノの音。私たちをふわっと包み込んでるみたい」


 博也は演奏を終えると、母親に向かって一礼した。


「最後まで聴いて下さってありがとうございました」


 母親は深々と頭を下げる博也に驚き、極まりが悪そうな表情で軽く頭を下げた。


「こちらこそ、素敵な演奏ありがとうございます。というか、何ていう曲ですか、これは」

「バッヘルベルの『カノン』です。聴いたことありませんか?」

「うん、どこかで聴いたことはあるけど、タイトルは知らないわ」

「ちなみに、カノンってどういう意味だか知ってますか?」

「知らない。ねえ、何でそんなこと私に聞くの?」

「僕も詳しくは知らないんですが、元々はギリシャ語で『模倣』を意味するらしいです。分かりやすい例を言いますと、輪唱ってご存知ですか?最初の歌い手の歌った旋律を、次の歌い手が同じ旋律を模倣しながら遅れて歌ってるでしょ?」

「うん、輪唱は知ってるけど」


 博也はもう一度、『カノン』を演奏し始めた。


「ピアノではちょっと分かりにくいんですけど、バイオリン三重奏では、最初の人が演奏したメロディーを、次の奏者がしばらく間をおいて後を追うように模倣しながら演奏しているんです」

「へえ……」

「親子ってこの『カノン』と同じだと思うんですよね。僕の親父は鍛冶職人で、包丁を作る技術に関しては一切妥協を許さない人だった。僕はピアノの調律や修理の仕事をしているんですが、ピアノの知識に関しては誰にも負けたくなくて、どこまでも頑固一徹で、周りにも呆れられる位でしてね。考えてみると、今の僕はあの時の親父と同じことをしてるんだなって、アハハハハ」


 照れ笑いを浮かべながら演奏する博也を見て、母親は口元を押さえて軽く笑いだした。


「今のまりえは、昔の私なのかな? 友達とバスケやるのが楽しくて、勉強なんてつまらなくて親に反発ばかりしてた私なのかな?」


 母親は腕組みしながら色々思索していたが、その時、まりえがうなだれた様子で玄関に姿を現した。


「まりえ!」

「あれ?お母さん……ここにいたの?」


 母親はソファーから立ち上がり、まりえの前にゆっくりと歩みを進めた。

 その表情にはさっきまでの笑みが無くなっていた。


「私を殴るんでしょ? お母さんに反抗して、勉強やめて家を飛び出したからさ。さあ、早く殴ったら?」


 まりえは毅然とした様子で母親を睨みつけた。

 しかし、母親は何も言わず、そのまま、まりえの前でゆっくりとしゃがみ込んだ。


「あの頃の私と同じだね。何かと反抗的でさ」


 そう言うと表情を崩し、笑いながらまりえの髪をそっと撫でた。


「な、何よ突然。どうして怒らないの? いつもなら言う事を聞かないと思い切りひっぱたくのに」

「ひっぱたいたって、どうせまた反抗するでしょ、あなたは」

「はあ?」

「私がそうだったから。さ、家に戻って、ご飯食べようか」

「どうしたの? なんかヘンだよ、どうしたのお母さん?」


 首をひねるまりえをよそに、母親は笑いながらエレベーターのボタンを押した。

 ドアが開くと、母親は博也に向かって頭を下げた。


「そのピアノ、素敵ね。音がとても優しくて、聴いてるうちに心がふっと軽くなったような気がするわ。今度私も演奏してみようかな。『カエルの歌』くらいしか弾けないけど」

「いや、『カエルの歌』もカノンと似てますよ。今度、このピアノで娘さんと演奏してみてください。一緒に演奏すると、親子の絆も深まると思いますよ」

「へえ、じゃあ今度試してみるかな」


 母親がそう言うと同時に、エレベーターのドアはゆっくりと閉まった。

 一人ロビーに残された博也は、椅子に腰かけてゆっくりと『カノン』を演奏した。


「お前、早速いい仕事したな。今度あの親子がここに来た時は、一緒に楽しく『カエルの歌』を歌ってやれよ」



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