第5話 包み込むように

 博也がピアノを置いたマンション入り口のロビーは、朝晩は通勤や通学へ足を急ぐ住民達で込み合っていた。

 しかし、日中はほとんど出入りが無く、唯一賑わうのは、マンションに住む高齢者たちがお茶を持ち寄って談笑する時くらいだった。

 今日も、お菓子とお茶を抱えた老夫婦が、ロビーの一角に置かれたテーブルに座ると、彼らの姿を見つけて、別の老夫婦が近づいてきた。


「あら、三枝子みえこさん、今日は早いわね」

「だって、ここでおしゃべりできる時間が待ち遠しかったんですもの。澄子すみこさんだってそうじゃないの?」

「あはは、ばれたか。あら、今日は旦那さんも来たの?」

「そうよ。ねえ貞夫さだおさん、ちゃんと挨拶しなさいよ。私にとってこのマンションでたった一人の友達なのよ」

「三枝子の夫の貞夫です。よろしく」

「こちらこそよろしく。あ、こっちは私の夫の昭三しょうぞうです」

「昭三です、よろしく」


 しばらくの間、老夫婦たちはお茶を片手に世間話に興じていた。

 静まり返るマンション内に、老夫婦たちの声と笑い声だけがにぎやかにこだましていた。彼らのすぐそばにピアノがあることには、まだ気づいていない様子だった。

 その時、三枝子は、ため息をつきながらお茶を口にした。


「私たちのためにって、息子たちがこのマンションを買ってくれたんだけど、毎日つまらなくってね。知り合いも澄子さんしかいないし。以前住んでた田舎町では、畑仕事とか民生委員とか町内会の仕事をしていて、それなりに充実していたのに」

「そうなの?どうしてこちらに引っ越してきたの?」

「夫の病院が近いからなの。今までは静岡の田舎から通院してたんだけど、交通費がかかるし、一泊しながら通っていたから、手間がかからないよう近くに越してきたんだけどね。確かに便利で不自由はないけれど、色んな物を捨ててここに来たから、寂しいのよね。畑仕事以外は特に趣味もないし」


 すると、澄子の夫の昭三が、壁際に置かれたピアノを見つけたようで、立ち上がると、ピアノを手で撫でながらじっと見つめていた。


「おい澄子、ここにピアノが置いてあるけどさ。以前からここにあったっけ?」

「いや、なかったはず」

「ちょっと年季が入ってるピアノだな。誰が置いたんだろう? 澄子、お前若い頃ピアノ習ってたんだろ?少し弾いてみたらどうだ?」

「ええ? 習ってたのはもう五十年近く前のことよ。今はちゃんと弾けるかしら?」

「以前、娘にもちょっとだけ教えてただろ?あの時、俺も聞かせてもらったけれど、上手だったじゃないか」

「まあ、あの頃はまだ習ったことを覚えていたからね。今はもう自信ないわよ」

「恥ずかしがらず、弾いてみろよ。大丈夫だよ、澄子なら」

「じゃあ……ちょっとだけね」


 澄子は立ち上がると、ピアノの椅子に腰を下ろし、そっと鍵盤に手を当てた。大きく息を吸い、吐き出しながらゆったりと手を動かし始めた。


「何だか、優しい音色ね。包まれていくかのような感じがする」


 三枝子は、澄子が奏でる調べを、目を閉じながらじっと聞き入っていた。


「どうかしら?ショパンの『エチュード』。若い頃にさんざん練習した曲だけど、やっぱり腕が落ちちゃったわね」

「そんなことないよ!何というか、澄子さんの奏でる音に包まれてるような感じがしたわ。ね、お父さん?」

「ああ……強さはないけれど、穏やかで耳にふんわりと入り込んでいく感じがしたな」


 三枝子も、夫の貞夫も澄子の奏でる音にしばらく心が奪われそうになっていた。


「気のせいかもしれないけど、このピアノを弾いてる私も、不思議と心が包み込まれているような気がするの。強音のクレッシェンドの部分も柔らかく聞こえるからかしら。ねえ、三枝子さんも何か弾いてみたら?」


 澄子は椅子から降りると、三枝子の肩を叩いて微笑みかけた。


「わ、私? 昔、小学生の頃にオルガンを弾いたくらいしか経験が無いから、無理よ」

「いいから、どんな曲でもいいから、弾いてみたら?」


 澄子に背中を押された三枝子は、胸に手を当てて気持ちを落ち着かせると、椅子に座り、鍵盤に手を当てた。

 リズムや音階は澄子に比べるとあやふやではあったが、昔一生懸命覚えた曲を思い出しながら、三枝子は鍵盤を叩いた。


「ああ、懐かしいわね。『野ばら』かしら?」


 澄子は、三枝子の演奏に合わせて鼻歌で旋律を刻んだ。


「童(わらべ)は見たり~  野なかのばら~」


 演奏が終わると、三枝子は大きくため息をついた。


「ダメよ私、全然演奏してないから、聴けたもんじゃないでしょ?」

「いや、全然。優しくて、どこか懐かしくて。私も女学生の頃音楽室でクラスメートと合唱したことを思い出しちゃった」

「そ、そう? 私、小学生の時、オルガンで演奏したのよ。クラスの合唱コンクールの伴奏やったの。でも、これが最初で最後だった」

「え? そうなの? 勿体ないわよ、三枝子さん。今日からでもやってみたら?ピアノ」

「私が……?」

 澄子の提案に、三枝子は自分自身の顔を指さし、驚いた表情を見せていた。

 しかし、澄子は大きく頷くと、三枝子の隣に座って、ピアノの鍵盤に手を当てた。


「私が教えるから。大丈夫。ま、私も随分長く弾いてなかったから、あやふやな所があるけれど、このマンションでただ一人の友達である三枝子さんに、何か生きがいをみつけてほしいからさ」

「澄子さんも……私がただ一人の友達だったんだ」

「そうよ。さ、一緒に弾きましょ。『野ばら』を」

「ええ」


 三枝子は大きく頷くと、『野ばら』の前奏部分をゆっくりと演奏し始めた。

 三枝子の演奏に合わせて、澄子が低音部分を演奏した。まるで、見知らぬ都会に出てきて心もとない生活を続ける三枝子を支えるかのように。ピアノは、二人の演奏する旋律を優しい音色で紡いでいた。


「あのピアノ、良い音が出ますよね。不思議と心がおだやかになるというか」

 昭三が、貞夫に向かってにこやかな表情で声を掛けた。


「ああ。ピアノを弾きながらあんな幸せそうな顔してる三枝子は久しぶりに見ましたよ」

 貞夫は、ソファに腰掛けながら二人の演奏をじっと聴き入っていた。


「私たちも男同士、仲良くやりますか」

「そうですね。なんせ田舎者なんで、畑仕事ぐらいしか趣味はないんですが」

「構いませんよ。僕はこの町で育ったんで畑仕事とは無縁でしたけど、どんなことをするのかずっと興味はありました。今度ぜひ教えて下さいよ」

「ああ、いつでもいいですよ」


夕方、いつもより早めに仕事を終えた博也は、マンションの玄関を通り抜けると、ロビーから楽しそうに談笑する声とピアノの音が聞こえてきた。


「へえ、人も少ないこの時間にこんなに賑やかなのは珍しいな。そして、一体誰がピアノを演奏しているんだろう?」


博也は期待で高鳴る気持ちを押さえながらそっとロビーに目を遣ると。そこには『野ばら』を連弾で演奏する女性たちと、畑仕事の話で談笑する男性たちの姿があった。


「良くわからないけど、あの人達すごく楽しそうだな。俺のピアノ、きっとまたいい仕事したんだろうな」


博也はピアノを囲んで和気あいあいと過ごす老夫婦たちの姿を横目で見届けると。ピアノの旋律に合わせて鼻歌で『野ばら』を歌い、到着したエレベーターの中へと入っていった。

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